昭和25年4月、私たちの年次から、小学校を卒業してからの3年間の義務教育としての新制中学を卒業し、
この年に校名を「両国」と冠した都立両国高等学校に入学した。
新制高校の生徒として、初めての「両国」高校への入学生であった。
両国高校に3年間学び、昭和28年に卒業。進学する者も就職する者もあり、卒業数年後からクラス会が開かれ始めた。
私の3年A組担任の祥雲通弘先生には、級友が卒業後も大変お世話になり、先生がご逝去された2013年の前年まで、
毎年クラス会を開き、私はずっと事務局を引き受けて来た。
50期では、大谷泰象先生のE組、昨年(令和元年)10月山下眞一先生がご逝去されたF組、植村大治君が山下先生の身辺を最後まで
気遣われた。
深沢實君が幹事のH組などが毎年クラス会を開き、E組だけは、現在も島ア文男君の下で、6月にクラス会を催しているが、本年は中止に。
さて50期の同期会「吾友会」は、7年前に亡くなった3年G組の田仲博君が主導して、昭和55年(1980年)11月8日、
上野精養軒で高校入学30年記念総会が開かれた。
私も司会議長役を務めた。田仲君は1年と2年に同じクラスで仲良く、卒業後も交流が深く、自営業の私は、時間の融通がきく相棒であった。
田仲君により、吾友会の幹事会は、毎年12月14日と決められ、会場の決定・案内書の作成・発送などは、全て田仲君が行い、
私は総会を含め、片々の雑務をお手伝いして来た。
吾友会総会は、その後は、卒業30周年総会を昭和58年(1983年)11月 竹橋会館で昭和63年(1988年)12月の総会、
平成4年(1992年)5月の総会還暦祝賀総会、平成6年(1994年)11月と続き、ミレニアム総会2000年(平成12年)10月
渋谷エクセルホテル東急を経て、卒業50年記念総会が平成16年(2004年)1月31日、平河町日本海運倶楽部で開かれ、
全ての催しが田仲君の計画に基づいて実施された。
この卒業50年記念総会で、田仲君は挨拶の中で、『吾友会の総会は今後は行なわない』と宣言した。その後は、
田仲君の手配で、毎年12月14日の幹事会のみが開かれて来たが、田仲君の体調不良により、平成20年(2008年)暮れの会で
幹事会の開催も途絶えた。
おかしなことだが、田仲君存命中は、同期会の運営は、田仲君の献身的で独立独歩の行動力で進められ、
私を初め学友たちは田仲君の性格を忖度し、慫慂として田仲君に従った。
その後、3年を経た平成23年(2011年)4月に田仲君と話し合い、E組の福岡一雄君と上野英夫が中心となって、
8組のクラス幹事が集まり、相談の上、新たな姿の「吾友会」が再構築された。
幹事会での協議と準備を重ね、同年(2011年)11月11日、亀戸アンフェリシオンで、50期吾友会「喜寿の会」が開催された。
更に、平成27年(2015年)11月14日に錦糸町レバント東京で、吾友会「傘寿の会」が催された。
お元気な山下眞一先生と淡交会の寺澤捷年前会長のご来臨によりお祝辞を戴いた。
吾友会の総会開催はここでひと区切りとし、その後は毎年、錦糸町レバント東京で、4月と10月の第2金曜日に、
幹事有志懇親会を開き、毎回25名ほどの学友が参集して来た。
今年は、コロナウイルスの蔓延の中で、春と秋の懇親会は中止し、来年(令和3年)4月に多くの学友に呼び掛け、
40名を超える幹事有志を集めて、86年の人生を顧み、恩師と亡き学友の思い出や、現在の生きる姿を語りあえるよう
福岡一雄会長を中心に準備を進めている。