東海道 H17.11.05〜H19.02.03 江戸日本橋〜京都三条大橋
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・ | 「お江戸日本橋は七つ立ち」と予定していたが、前夜に飲み会が入り五つ(8:05)
の旅立ちとなった。
見慣れた場所だが、人通りの少ない銀座通りも新鮮な印象があり、心弾む歩行で
瞬く間に高輪の大木戸を越え最初の宿場の品川に達した。
品川宿を過ぎると見慣れぬ景色に嬉しさを憶えて、快調な足取りとなった。
しかし、川崎を越え神奈川手前で足裏に肉刺(マメ)が出来て、突然に辛い歩行となった |
総てのスタート 日本橋道路元標
≪日本橋道路元標≫
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・ | 初日32km歩き、足を引きずって保土ヶ谷駅到着。
昔の人は40km/日、現代人の足の弱さを痛感。
靴は「歩き慣れた物」ではなく、「靴底が固く 道路の凹凸を感じない物」と初日で認識 |
幅2間の苔むす箱根旧街道の石畳
≪苔むす箱根石畳≫
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・ | 東海道は安藤広重の浮世絵と現代の景色を見比べながら、昔の旅を想像しながらの旅となった |
・ | 一里塚は街道歩きの楽しみ。横浜権太坂先の品濃一里塚が最初の本格的なもの |
・ | 最初の難所は箱根、現代は登り下りの8里を1日で行かねばならない苦しい行程。
一間半幅の旧街道、苔むす石畳や景色を楽しむゆとりは無い。
東海道とはいえ、行き交う旅人は全く無く、「親爺狩り」が出たらひとたまりもないと考えたら怖くなる |
富士、海岸線、鉄道と道路が織りなす薩垂(さった)峠からの景色
≪薩垂峠からの絶景≫
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・ | 由比宿の先の薩垂峠からの景色はカレンダと
同じ。富士、海岸線、鉄道と道路が織りなす絶景 |
・ | 大井川を越えた牧の原は、現代は一面の茶畑、茶摘みが終わった畑の整備作業中。
ここに難所だった小夜の中山(峠)、西行、芭蕉等の歌碑多し |
・ | 名古屋熱田から桑名へは船渡しだった(石松の「鮨喰いねえ」で有名)が、
現代の旅人は排気ガスに溢れる国道を気力を無くして進む |
寒さに凍えた雪の鈴鹿峠にある常夜灯
≪雪の鈴鹿峠常夜灯≫
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・ | 関宿から水口宿までの鈴鹿峠越えの日は、東京は晴、名古屋は晴れ間に雪と
スタート地点に近付くにつれ天候は悪化し、JR関駅では横殴りの雪が降るが、
ここから帰宅することもできず、雪の中の歩行。手袋を取換えながらも
寒く冷たく辛い峠越えとなった |
・ | 草津宿は中山道との合流地点。本陣遺構は街道一といわれるが感動少ない |
東海道を歩き切った感激の三条大橋にて
≪終点の三条大橋にて≫
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・ | 瀬田の唐橋下流にある紫式部が源氏物語を書いた石山寺と大津にある近江八景の
ひとつ三井寺の晩鐘を訪ね、時代を感じる |
・ | 三条大橋が東海道の終点。人と車がごった返している。
東海道を歩き切った感激しきり |
中山道 H19.03.17〜H20.03.27 江戸日本橋〜京都三条大橋
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・ | 日本橋を東海道とは反対方向にスタート。秋葉原から本郷へ、「本郷もかねやすまでは江戸のうち」
という言葉を口ずさみながら、本郷三丁目交差点を越え、東大赤門前から左折。
駒込から巣鴨とげぬき地蔵前を通り、最初の宿場の板橋に達した |
最初の板橋宿の宿名由来となった板橋
≪最初の宿は板橋宿≫
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・ | 3月31日のこの時期、街道沿いのあちこちで桜が満開。街道から外れて、
五大桜という桶川の石戸蒲桜を見物、やや小柄で感激は少ない |
・ | 群馬県に入ると妙義・榛名山系が遠くに聳えて美しいが、これからの山越えを考えると前途多難の感 |
碓氷峠へ向かう刎石(はねいし)山「覗き」からの絶景
≪碓氷峠/刎石の覗き≫
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・ | 麓の坂本宿を過ぎて2里半の峠越えを決意して山道を目指すが、
入口を探せずに旧信越線の「めがね橋」に達し、1.5km引返して山道に入る |
・ | 名前の通りの急なゴロ石が続く刎石(はねいし)山、途中の「覗き」からの絶景は格別。
続く山中坂は23分の一気の上りで、やっと碓氷峠に到達 |
・ | 軽井沢の先の追分から街道は南西に下り、蓼科北側の馴染みのない宿名の街を進む、
鉄道から外れて往復が難しくなる。周囲を浅間、蓼科、信濃の山々に囲まれた
景色が美しい町々(小田井宿、岩村田宿、塩名田宿、八幡宿、望月宿、芦田宿、長久保宿、和田宿)を進む |
蓼科の小田井〜八幡宿では浅間山は旅の友
≪蓼科八幡宿付近の景観≫
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・ | 和田峠道は登り下り2時間半、登りは急ではないが登りの連続、下りは獣道ともいえる幅30cmの道、
路側からは川の轟音が聞こえ続け暑さを和らげる。舗装道に出て1時間歩くと真夏の2日目のため、
ドッと疲れを感じた |
・ | 塩尻から25kmのJR日出塩駅先に「是より南、木曽路」碑を過ぎると、
突然両側の山が迫り険しい峡谷となる。「これが木曽路」だとの思い。
山肌を削り国道と鉄道を通したことが明白な配置。旧街道もやっと通したのだろう。
川に張り出した歩道が多く、「桟(かけはし)」「桟道」の地名も残る |
急峻な山間に川、国道、鉄道と少しの人家が肩寄せ合う木曽路
≪急峻な山間の木曽路≫
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・ | 奈良井宿は昔の街並が良く保存されている。五街道で最大とも感じられる |
・ | 馬籠宿、妻籠宿は藤村の小説の御蔭で明治以降に賑いを得たらしい、
観光客が溢れていたが、昔は大変寂しい宿場だったようだ |
急坂に続く馬籠宿の街並
≪急坂の馬籠宿≫
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・ | 大湫(おおくて)宿、細久手(ほそくて)宿という山中の宿を抜け名鉄御嵩に着く。
やっと木曽路を抜けた。街道との往復が鉄道でできると感じることが気持ちを
楽にさせる、「本当に鉄道とは有り難いものだ」とこの旅で文明の有り難さを感じた |
・ | 赤坂宿は大垣市。芭蕉の「奥の細道」の終着地だ |
・ | 月曜日とはいえ関ヶ原古戦場跡は観光地とは思えぬ寂しさ、
ある旅館は事前の電話で着信拒否、別の旅館に予約できて宿泊、
宿帳を見ると前泊者は3ヶ月前の浦安の人、その前は更に1ヶ月前に2名。
これでは商売は成り立たないと強く感じた |
草津宿の東海道と中山道の分岐にある道標を兼ねた常夜灯
≪東海道分岐道標≫
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・ | 山から近江の琵琶湖周辺の平地に出てきた、彦根地区では雪に遭った、
3泊4日の3日目の歩きで尚更辛い。天気が回復し、東海道との分岐宿の草津に到着。ここから先は東海道と一致している、
東海道の歩きで外した旧街道の道筋を探しながら大津駅まで歩いた |
・ | 大津からは小学校の同級生2人が参加し、昔の旅で京都市街を迂回する
街道として使われたという奈良街道を辿り、桜の名所といわれる
醍醐寺までの街道を進んだ。桜は3〜5分咲きだった |
日光街道 H20.03.17〜H20.04.26 江戸日本橋〜日光鉢石宿
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・ | 会社が変わる休暇中の旅立ちで未だ薄暗い6時の歩きだし、日本橋から200mで
右折して中山道から分かれる。伝馬町牢屋敷跡、シャッタの下りた馬喰町問屋街、と抜け、
浅草橋、浅草へと進む。すこし早い時期だが、墨田公園の桜は早咲き種が咲いている |
桜が咲き始めた墨田公園
≪桜咲く隅田公園≫
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・ | 南千住駅脇の小塚原刑場では、現代とは大きく異なる罪で多くの人が
処刑されたことを思うと心が痛む |
・ | 千住は芭蕉が奥の細道を歩き始めた場所、これからの道中を重ね合せて感激はひとしお |
・ | 旧日光街道はかなりの部分で国道4号線と一致していて、
街道沿いの旧跡が少ない。旅のアクセントの少ない国道を黙々と歩くことが多くなった |
奥の細道で旅立ちの千住大橋
≪旅立ちの千住大橋≫
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・ | 杉戸を出ると一面の田園風景、田の中を日光へ向かう特急が疾駆し、
昔(歩きの旅人)と今の対比を感じる |
・ | 栗橋を出て利根川を渡る。前回とは違った明るい朝の青空に熱気球が浮かぶ |
・ | 見るものが無くても一日に歩ける距離は30km前後、少し気持ちに焦りを感じながら、
古河、小山から宇都宮と進み、奥州街道との追分を左折 |
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杉戸を過ぎると田園風景が広がる
≪杉戸の先の田園風景≫
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利根川上空に浮かび競う熱気球
≪利根川上空の熱気球≫
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日光市(旧今市市)に入ると途切れながら杉並木が続く
≪途切れて続く日光杉並木≫
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・ | 徳次郎(とくじら)宿から先は途切れ途切れではあるが杉並木が続く。
杉並木の西側の市道沿いに幅2mで長さ500m以上もの美しい芝桜の花壇がある。
地区の自治会が植えたものだという |
夕暮れで参詣は終了した日光東照宮入口
≪夕暮れの日光東照宮≫
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・ | 数キロの杉並木をいくつか越え、雨が降り出した中で日光駅の先の
日光街道終点の門前町である鉢石宿に到達。観光客が多く賑いのある街だ |
・ | 足を延ばして、夕闇が迫る中、輪王寺、東照宮を訪ねる。東照宮は参詣時間終了で入れず、残念!! |
奥州街道 H20.09.27〜H20.11.02 宇都宮追分〜白河
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・ | 夏の暑さを避け、涼風が吹き始めた彼岸過ぎの旅立ち、相変わらずの
前夜飲み会で深夜帰宅の翌朝の宇都宮 |
奥州街道始点の日光街道との追分
≪宇都宮の奥州街道追分≫
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・ | 宇都宮から1時間30分歩くと街並を外れ、
最初の宿の白沢まで5kmとなる。聞き覚えのある町はその次の宿氏家宿。
氏家宿から先は、那須連山が旅の友 |
・ | 那須は山のイメージが強いが喜連川から大田原と閑散とした平地の中を進む。
田と荒地と雑木林、所々に一里塚碑や道祖神、明治天皇小休処碑を見つける |
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氏家で鬼怒川を渡る。上流には那須連山が連なる
≪鬼怒川と那須連山≫
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喜連川の夫婦道祖神。安曇野では祝言道祖神
≪喜連川の夫婦道祖神≫
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那須の与一の里にある名木_樹齢200年の赤松
≪与一の里名木の赤松≫
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・ | 大田原を越えても街を外れると、田と荒地と雑木林の連続、
JRから東に離れた街道には、「那須与一の里」の表示があり、
那須の与一が活躍した地域らしいのだが、関連する旧跡
は見当たらない |
戊申戦争で激戦地 白河入口の会津藩兵慰霊碑
≪会津藩兵慰霊碑≫
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・ | 那須町を過ぎると福島県白河市に入る。江戸期には県境の位置に関所が
あった様だ(二所の関址碑あり)が、昔の白河の関は街道の東方5km程
の所にあるらしい |
・ | 白河市に入ると戊申戦争の慰霊碑が各所にある。 |
| 西国から遠征して戦死した大垣藩士慰霊碑、国を守るため戦死した
会津藩兵慰霊碑(白川口の激戦地に建つ)などが街道筋に見られる |
白河の街を見下ろす小峰城
≪白河の小峰城≫
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・ | 戊申戦争の激戦地となった白川宿、街中には江戸〜明治の記憶を
思わせるもの無し。戦争当時は藩主不在で、二本松藩預りだった様だが、
老中松平定信(寛政の改革)が1783年から城主で、会津に次いで賑った
街だったようだ |
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甲州街道 H21.01.12〜H21.09.26 江戸日本橋〜下諏訪
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・ | 正月明け間もなく(1/12)、「都会の散歩」の気持ちで街道歩きをスタート。
和田倉門でお堀端に出て日比谷、桜田門、半蔵門から四谷見附を経て内藤新宿に達する |
日比谷通りへ和田倉門で出る
≪皇居和田倉門≫
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・ | 都内の甲州街道は車でしばしば通った所、随分景色は変わったが聞きなれた街が続く。
環八から先は世田谷の街路だ、人通りが多く旧跡は無い。府中に近付くと人影が多くなる、
競馬場と大国魂神社へのお参り客だ、交差点近くに初の旧蹟「高札場跡」
派手な朱塗りの門脇だ |
・ | 日野宿本陣は良く保存されている、自由な参観は許されていないようだ。
草津本陣よりも全体の雰囲気は優れている |
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立派な佇まいの日野宿本陣_街道随一
≪日野宿本陣≫
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1947年にダムが完成した相模湖の山梨県境からの眺め
≪県境から相模湖の眺め≫
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猿橋の祭り(4/19)は先頭がチンドン屋さん
≪猿橋の祭り≫
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・ | 小仏峠は標高差300mの登り下り、ハイキングと同様の山道を進み相模湖畔に出る。
相模湖は昭和22年にできたので、昔の街道は大変な登り下りの多い山道だった
ことを思わせる深い谷に掛る橋をいくつも渡った |
金色の稲と白い蕎麦花が美しい甲斐・信濃境の蔦木宿の風景
≪県境に近い蔦木の風景≫
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・ | 猿橋周辺は祭りの時期(4/19)、屋台がひしめき合っての賑い、
猿橋の街は橋から1.5km先にあり、チンドン屋を先頭にした稚児行列。
上諏訪、塩尻は装飾した長持ちを担いで廻るもの |
・ | 大月から甲府に向かって笹子峠越えがある、標高差450m、5kmの道のりだ、
旧街道は勾配が急で辛いが1kmもなくて頑張れる |
・ | 勝沼は一面のぶどう畑とワイナリーの街。韮崎の先の高台に徳島堰という
用水路あり、眼下の川面より50mも高い所をゴーゴーと流れる、先人の知恵 |
上諏訪の祭り(9/26)は長持ちに装飾して担ぎ廻る
≪上諏訪の祭り≫
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・ | 蔦木宿(富士見)から緩やかな上り坂を20km近く歩き茅野に達する。
諏訪湖では北側の山沿いの街道の道筋を辿り、諏訪湖の景色を楽しんだ |
・ | 諏訪大社下社に達し、大社脇の中山道との合流点が甲州街道の終点。
周りの方にお願いして、五街道踏破の記念撮影をした |
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明治天皇も小休止してご覧になった景色
≪明治天皇駐輦処の眺め≫
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中山道歩きでも訪れたが、諏訪大社 下社秋宮
≪諏訪大社下社秋宮≫
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甲州街道終点に立ち、五街道踏破の記念撮影
≪甲州街道終点にて≫
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仙台道 H21.11.09〜H22.09.19 白河〜仙台芭蕉の辻
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・ | 五街道を踏破し改めて北へ向かって街道歩きを続ける。11月の白河は初冬を感じさせる空気、
街道脇の葉の落ちた柿には実がたわわに下がり、木々はちらほらと紅葉している。
未だ雪の気配は感じられない |
仙台道起点の白河宿本陣付近の街並
≪仙台道起点≫
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・ | 街道を歩くと一街道に1〜2本素晴らしい松がある、このことが結構嬉しいものだ。
大和久宿の寺の「臥龍の松」もその一つ、樹齢200年、目通り1.5m、謂れの無いところも良い |
・ | 郡山は明治以降の街、開成山公園は開拓のシンボルとのことなので訪れるが、
旧跡を訪ね歩く旅人には初冬の陽の明るさだけが目立つ公園だ |
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郡山の明治期開拓のシンボルという開成山公園
≪郡山開成山公園≫
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二本松市境付近の田園風景と安達太良山
≪安達太良山と田園風景≫
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二本松の霞ヶ城_入口に戊辰戦争での二本松少年隊像
≪二本松の霞ヶ城公園≫
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・ | 2回目の歩きは1月中旬、数日前に雪が降ったが暖かそうなので出発。
芭蕉の「奥の細道」に出てくる日和田から歩く、ここの安積山公園に説明標識あり。
日和田宿西方寺の傘松も大きい |
二本松城本丸跡から二本松市街の眺め
≪二本松市街の眺め≫
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・ | 二本松に入ると西側に安達太良山が横たわる、周りの田畑にも雪が積もっているが、
頂上付近に雪が積もって一層美しく感じられる |
・ | 二本松は戊辰戦争で会津と並ぶ戦場となった城下町、
霞ヶ城公園前には二本松少年隊の像、公園からの景色が良い |
・ | 廃藩置県で伊達郡が出来て桑折(こおり)に役所におかれ、立派な郡役所が残る。
昔に栄えた街なのに初めて聞く地名に出会えるのも旅の醍醐味と思える |
伊達氏ゆかりの地 桑折(こおり)にある旧伊達郡役所の建物
≪旧伊達郡役所≫
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・ | 6ヶ月のブランクで白石から夏の再スタート。暑さの中、白石、大河原、船岡、
岩沼と小説で読んだり、出張で訪れた街だが、淡々とした街道が続く |
・ | 広瀬川を渡ると仙台城下、青葉城恋歌の街だ。街の中心地に「芭蕉の辻」があった。
日本橋迄69次93里、三厩迄45次107里22丁の道標、先は長い |
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樹齢400年で明治天皇が命名した御蔭廼松
≪御蔭廼松(みかげのまつ)≫
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岩沼付近の阿武隈川の流れろ常磐線鉄橋と製紙工場
≪岩沼付近の阿武隈川≫
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仙台道終着の芭蕉の辻にある道標
≪仙台の芭蕉の辻≫
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松前道 H22.09.19〜H24.05.30 仙台芭蕉の辻〜津軽三厩
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・ | 仙台の街はさすが大きい、中々郊外の景色にならない、北の大和町に入ると秋の田園風景が
広がってくる。荒れた道筋は残るが、行止りの路や雑草茂る陸奥の旧街道が始まる。
青森までには旧街道を辿ることに恐怖を感じるほどになってしまった |
大衡村の雑草茂る旧街道_左に分岐する狭い道へ進む
≪雑草茂る旧街道≫
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・ | 大崎氏の拠点であった古川宿には歌枕で名高い緒絶(おたえ)橋があり情趣ある街並が印象的 |
・ | 11番目の金成(かんなり)宿では明治期の旧金成小学校に目を見張った。
代官所跡地の7本の大欅並木との調和が素晴らしい |
・ | 半年前に地元の青年達が草刈りをしたという街道も膝までの雑草が茂り、
やっと山道を抜けると本陣が残る有壁宿。観光客の無い宿場の本陣門は固く閉ざされていた |
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宮城県指定文化財の旧金成小学校_明治43年築
≪明治期の旧校舎≫
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街道随一の有壁宿本陣_参観不可
≪有壁宿本陣≫
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平泉毛越寺の大泉ヶ池
≪毛越寺大泉ヶ池≫
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・ | 暖かくなるのを待って一ノ関をスタートしたのは、平泉が世界遺産登録される1週間前、
芭蕉は一ノ関に2泊し日帰りで雑草生い茂る平泉を訪れたという。
「夏草や…」は数々の藤原氏遺跡にぴったりの歌 |
平泉の義経堂から衣川古戦場方面の眺め_芭蕉が一刻(いっとき)も落涙したという
≪義経堂からの展望≫
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・ | 芭蕉が絶句・落涙したという義経堂(ぎけいどう)からの眺めは素晴らしい。
芭蕉と同じ気持ちになったと感じていられた |
・ | 17番目の水沢宿は大和朝廷軍と戦った蝦夷のリーダーアテルイの本拠地。
胆沢(いさわ)城は鎮守府が多賀城から移されたものだという。
この広場で鹿(しし)踊りが披露されていた |
・ | 北上/黒沢尻からは南部藩領、北上川がゆったりと流れ、対岸にはサトウハチロー記念館が見える、
北上展勝地と売っている。
花巻へ向かう途中、老愛犬危篤の報を受け旅を切上げ帰宅 |
鹿(しし)踊り_岩手県南地方の神事芸能
≪鹿(しし)踊り≫
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・ | 盛岡には明治から昭和期の建物が多く残されている。古代の地名
「不来方(こずかた)」を付けた橋が架かる。開運橋から岩手山を眺める景色が良い |
・ | 盛岡から家数の少ない寂しい道を辿って啄木の故郷渋民村に着く。街並の東側に姫神山が聳え、
この山が「ふる里の山に向かいて…」の山だろうと納得する |
・ | 北部の南部藩は三戸を中心にぐるっと一戸から九戸の地区名があり、
各南部氏の盛衰があったようだ。
十和田・野辺地を越えた所に津軽・南部の藩境塚が聳える、両藩の仲は
悪かったらしいが、海には感激の虹が掛っていた |
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盛岡市街を流れる北上川と岩手山
≪盛岡市の北上川≫
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渋民村の東側にそびえる姫神山
≪渋民村東側の姫神山≫
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津軽藩と南部藩の境塚_雨上がりの虹のおまけ付き
≪津軽南部藩境塚≫
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・ | 青森の古代名は善知鳥(うとう)、街中に善知鳥神社あり、明治期以降に木材集積地
として発展した街だ。海岸線からは対岸の下北半島にWind-Farmが連なって見える |
下北半島に並ぶウインドファーム(風力発電機群)
≪下北のWind-Farm≫
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・ | 青森から北の街道は、かなりの部分が砂浜だったという。
松前藩の為だけの街道だから、旧跡もほとんど無い。
工事中の北海道新幹線を眺めながら、街道終点の三厩(みんまや)港に着く |
・ | 三厩から龍飛岬までは11km、津軽半島北端を目指して進み、北端の岩場を踏みしめ、
標高差90mの崖を登って龍飛岬灯台で記念撮影 |
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推定樹齢500年の昇龍の松_松前藩主の盆栽を植えた
≪昇龍の松≫
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三厩港と義経伝説を語る義経寺
≪三厩港と義経寺≫
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龍飛岬灯台にて記念撮影
≪龍飛岬にて≫
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西国街道 H23.01.31〜H25.12.17 京都東寺〜下関亀山八幡宮
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・ | 西国街道の起点は京都東寺。北国は雪で歩けないので、
西に向けてスタートした。
京都市街を外れると旧街道は石畳が敷かれた趣ある道が伸びて、
長岡京、山崎合戦など歴史の街が続く |
西国街道起点は京都東寺
≪西国街道起点≫
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・ | 茨木市の郡山宿には江戸中期に再建された本陣が残る、
門内の見学はできないが美しい建物だ。
伊丹の先から南に下って西宮宿から神戸に出る。しばらくは、
右の川上には街並の上に六甲の山並みが見える美しい景色が続く |
・ | 西宮から宿間36kmを歩いてやっと明石宿が近づくと明石海峡大橋が聳える。
JR舞子駅上の橋の袂のバス停のバス時刻表を見て、四国への夢を馳せた |
・ | 明石は東経135度の日本標準時の街、JRからも見える天文科学館の写真を撮った |
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神戸市石屋川から眺める六甲の山並み
≪石屋川と六甲の山並み≫
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明石海峡大橋
≪明石海峡大橋≫
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日本標準時の明石天文科学館
≪明石の天文科学館≫
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・ | 黒田官兵衛のふる里御着(ごちゃく)宿の次の宿が姫路だ、姫路城は天守閣が
長期改修中でこの街道歩きの期間中ずっと天守閣の絵が描かれたテントで
覆われていて、残念! |
長期改修中の姫路城天守閣
≪改修中の姫路城≫
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・ | 太子町に斑鳩寺があって半信半疑で訪れると、聖徳太子が天皇から賜った所領だという、成程。
その先の龍野市の下水蓋にはトンボがびっしり24匹並ぶ、
「赤とんぼ」の作詞家三木露風の出身地なのだという |
・ | 伊部(いんべ)町は備前焼の窯元が街道2kmの両側に並ぶ、街外れの八幡宮の狛犬は備前焼だ。
街を出た所に大ヶ池という大きな溜池があり、池中を新幹線が突っ切っている珍しい光景である |
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聖徳太子の所領だった太子町の斑鳩寺
≪聖徳太子所縁の斑鳩寺≫
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伊部(いんべ)町は備前焼のふる里〜狛犬も備前焼
≪八幡宮の備前焼の狛犬≫
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後楽園の池越しの岡山城(烏城)
≪後楽園と岡山城≫
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・ | 岡山城は烏城といわれ黒壁に金の鯱と白壁が映えて美しい、
更に三名園のひとつの後楽園の景観にマッチして感激である |
秋桜咲く街道から備中国分寺を望む
≪備中国分寺≫
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・ | 総社市では配置図や標識だけの国分尼寺跡とその500m先に営業中の備中国分寺が山門、
五重塔、本堂、庭園と整備され美しく眺められた。コスモスが咲く秋の街道が続いた |
・ | 真備(まび)町は遣唐使で多くの文化を学び持帰った吉備真備(きびのまきび)から採ったもの、
囲碁と毛筆の祖とも奉られている人らしい。真備町の民家では壁・塀一面に干し柿が吊るされ驚く |
・ | 矢掛(やかげ)宿は本陣・脇本陣の建物が連なった趣ある街並、
祭りは1週間後に「大名行列」が行われると宣伝していた |
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溜池の堤から眺める吉備路の風景
≪吉備路の風景≫
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一面の干し柿が吊り下げられた真備町の民家
≪真備町の民家≫
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尾道駅前に佇む林芙美子「放浪記」碑
≪林芙美子「放浪記」碑≫
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・ | 尾道は林芙美子が逗留した町、下宿していたという喫茶店が看板を掲げている。
駅前には林芙美子「放浪記」碑がある |
竹原市保存地区の街並
≪竹原保存地区の街並≫
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・ | 三原からは旧街道を外れ海岸沿いの道を辿る。山越えして街並保存地区の
ある竹原に出る。漢詩の「川中島」で有名な頼山陽や元首相の池田勇人の出身地でもある |
・ | 呉市の東側は牡蠣養殖の盛んな所、養殖筏の向こうにフェリーが渡り、
島を跨ぐ吊り橋が散見される春の景色の中を歩く。途中の仁方港は、
旅人が40年前に四国から本州に渡った国鉄仁方〜堀江連絡船の町だが、
すっかり人気もなく寂れていた |
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牡蠣養殖筏と春の瀬戸内海を渡る大西港行きフェリー
≪瀬戸内海を渡るフェリー≫
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かつてJR仁方〜堀江連絡船で賑っていた仁方港はひっそりとして
≪呉市仁方港≫
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春色の瀬戸内海を跨ぐ安芸灘大橋
≪春色の瀬戸内と呉線≫
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・ | 海岸通りの中心都市で軍港の街の呉に入る。
街並の間から戦艦大和を造った造船所のクレーンが見える。
市街の先の海岸通りは明治〜昭和に軍艦見送りの人で賑った所で「人の思い」
を感じる街である |
呉市街と林立する造船工場のクレーン
≪呉市街と造船工場≫
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・ | 広島は平和公園周辺に外国人や旅行生が多い、各地に原爆の記憶を
留める施設が点在している。この先の旧街道は山側を通り、
道筋を見失うことしきり、江戸期にも交通量が少なかった表れかと感じた |
・ | 岩国市街は街道から大きく外れるが、是非にと思いタクシーを使って錦帯橋を訪れた。
想像通りの立派な橋だ、ロープウエイで登った岩国城山頂から市街が一望、
Ospreyで有名になった岩国基地が遠い海際に見える |
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太田川と原爆ドーム
≪太田川と原爆ドーム≫
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岩国城山頂からの眺め〜錦帯橋と岩国市街
≪岩国城山からの眺め≫
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下関火の山にて〜関門橋を背景にして
≪下関火の山にて≫
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・ | 毛利藩の史跡が多く残る長府を過ぎるて、明治期まで「赤間関」
と呼ばれていた下関に到達。関門橋下の公園は、壇ノ浦古戦場の間近で、
幕末の砲台も設置された場所 |
みもすそ川公園の義経・知盛像
≪源義経・平知盛像≫
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・ | 関門橋下の国道トンネルを通り門司側までの0.9kmを往復、
門司側の茶屋でおでんを食べ、渡ったことに意義ありと納得して戻る |
・ | 西国街道(山陽道)の終点は、関門橋から2km程先の亀山八幡宮前、
ここは門司へ渡る唐戸桟橋前の場所でもある。
本州の北と西の主要街道踏破に小さく感激の声を上げた |
・ | 更に西の外れを目指し、下関駅を越え関彦(かんけん)橋を渡って彦島に入り、
島内を一周した。目立った旧蹟は無く、門司の街並を間近に見て帰ってきた。
街道歩き+αの終了である |
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門司側から海峡を眺める〜流れに逆らって進む貨物船
≪門司側からの眺め≫
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赤間ヶ関(下関の旧名)亀山八幡宮前の西国街道終点碑
≪西国街道終点碑≫
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海峡ゆめタワーから関門海峡の眺め〜巌流島・彦島・門司市街
≪関門海峡の眺め≫
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