淡交会の元事務局長であり、淡交五五会の創設者の一人で、世話人代表を40年間務めた
盟友外山三喜君が、去る令和3年6月6日、急逝されました。
6月7日の夕刻、種村良平君から、外山君が急逝されたと奥さんから連絡があった、
と急きこんだ電話を貰った時、小生も絶句し、五五会で一、二を争う元気者の外山君がなんで?と、
俄かには信じられませんでした。未だに信じたくない思いが 沸々と胸中に去来します。
本稿では、淡交五五会における外山君の足跡を中心に紹介し、
追悼の辞といたします。
「淡交五五会(以下、五五会)」は、40年前の1980年(昭和55年)ごろ、「40歳になったので、
全体同期会をやろうじゃないか」、との機運が、外山君や種村君などから高まり、
各クラスの有志が招集されて発起人会と称して、会合を持ったのが五五会の嚆矢でした。
会合を重ね、組織の骨格や行事予定などを練り上げました。
旧友との20年ぶりの再会が楽しく、会合は飲み会に変わることも度々でした。
発起人会では、まず名簿の作成、
会の名称は「淡交五五会」とすること、
総会を原則として隔年開催、
淡交会費を総会開催の都度2年分預かり、一括納付すること、
各クラス2名ずつ世話人を選出、
世話人代表に宇田川、種村の両君、
事務局長に外山君
とすることなどを決め、総会を開催して、これらを議案として諮ることが合意されました。
外山君は、常に議論の中心にいて、まとめ役でした。「五五会」の創設者と目される所以です。
第1回淡交五五会総会は、1981年11月21日、赤坂プリンスホテルにて
開催されました。
参加者100余名、恩師は根津、松原、斎藤、奥谷、谷口の5名の先生がご出席され、20数年前に
同じ学び舎で過ごした旧友と恩師が集い、旧交を温め、親睦を深めるとともに、
上記の議案を拍手で承認し、大盛会のうちに再会を約して、お開きとなりました。
以来、2020年までの約40年間に、五五会総会は、連綿と16回にわたり開催してきましたが、
外山君は会ごとにいろいろ趣向を凝らし、全員が満足するように気配りをし、
運営はプロ級と評価されておりました。
淡交会費の一括納付方式は、40年経った今でも継続しています。
2006年(平成18年)2月に、世話人代表が宇田川、種村両君から
小林君と中村に交代し、余人をもって代え難い事務局長は、引き続き外山君が担うこととなりました。
五五会事務局は、外山君のご自宅でした。
新体制下の最大の成果は、2009年から2年がかりで取り組んだ古稀記念文集の発行でした。
外山君は、編集総括の一人として、原稿収集、寄付金集めなどに辣腕を振るい、
寄稿者100余名、320ページの大作の記念文集の完成に漕ぎつけました。
因みに、古稀記念文集のタイトルは、皆の母校に対する万感の思いを汲み、校歌の一節を引いて
「学びの海はるか」としました。
五五会の「知的財産」として、各々の書棚に輝いていることでしょう。
淡交会報第86号に掲載された外山君の「淡交五五会だより」は、
図らずも、彼の遺稿となりましたが、私たちはこれを「遺言」と受け止め、やり残された企画を
粛々と実行に移して行くつもりです。
新型コロナ禍の影響により、中止の止む無きに到った傘寿記念の第17回総会や、拡大世話人会、
新春七福神巡り、奥の細道を訪ねる小旅行、五五会ゴルフ会などの企画は、
コロナ禍の終息状況を見極めながら、必ず実行してまいります。
世話人代表には、新たに井上冨美子(五五会事務局)、須釜慶子、羽鳥雙六の3名が加わり、
小林、中村と合わせて、5名体制で今後の五五会の運営を担ってまいります。
皆様のご支援、ご協力を心からお願いいたします。
外山君、あなたの、誰にも好かれる人柄と、淡交会や五五会の仲間のために成し遂げた多くの事績は、
私たちの心に永久に刻まれることでしょう。これからも天国から、私たちを見守り、応援してください。
淡交会報第85号の発行以降に逝去された同期生は、
外山君のほか、木村均君、小島幹生君です。心からご冥福をお祈りします。