(スマホ) 最終更新日:2021/01/05 by AM  

 40回生は、昭和13年、入学定員は、250名であった。
平成19年に「始終会」正式解散以後、今年(令和2年)8月の名簿記載の連絡可能者は25名となっている。
 以下に、これまでの思い出を記す。

  • 昭和16年12月8日 学期試験実施中に「真珠湾奇襲成功」の放送が流れた。
  • 学徒出陣、陸土、海兵進学者あるも戦死者なし。
  • 一高進学者 渡辺清治3月10日 自宅全員焼死。
  • 中村克郎「きけわだつみの声」編集。
  • 小嶋昌夫は、昭和22年11月 三中物理教師に就任。
     生徒は、めっちゃ明るい。
  • 23年3月夜学に。
     「壁のようだよ」と言われた夜学。生徒は、授業終了後も帰らず、話をせがむ。
    25年には、新制中学初の卒業生の女生徒も出る。
  • そのひとりは、3月10日に映画監督だった父を亡くした(本人は学童疎開していた)
     給仕として裁判所勤務し、2年の時、夜学登校時にジープに右足を轢かれる。
     上級職試験を重ね、東京家庭裁判所事務局長となる。
     明治以来、法曹界初の女性「高等官」(2人目は10年後に東大法学部卒が)
     園遊会で天皇・皇后両陛下にご挨拶。
     退職後、専任を望まれるも辞退し、非常勤で退職者会世話活動。
     国民学校一年生の会会員。
    僕の37年間の夜学教師の生きがいの出発点の一つとなった。
 小嶋 昌夫(40回) 記     
(淡交会報第85号より 転載)    
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