40回生は、昭和13年、入学定員は、250名であった。
平成19年に「始終会」正式解散以後、今年(令和2年)8月の名簿記載の連絡可能者は25名となっている。
以下に、これまでの思い出を記す。
- 昭和16年12月8日 学期試験実施中に「真珠湾奇襲成功」の放送が流れた。
- 学徒出陣、陸土、海兵進学者あるも戦死者なし。
- 一高進学者 渡辺清治3月10日 自宅全員焼死。
- 中村克郎「きけわだつみの声」編集。
- 小嶋昌夫は、昭和22年11月 三中物理教師に就任。
生徒は、めっちゃ明るい。
- 23年3月夜学に。
「壁のようだよ」と言われた夜学。生徒は、授業終了後も帰らず、話をせがむ。
25年には、新制中学初の卒業生の女生徒も出る。
- そのひとりは、3月10日に映画監督だった父を亡くした(本人は学童疎開していた)
給仕として裁判所勤務し、2年の時、夜学登校時にジープに右足を轢かれる。
上級職試験を重ね、東京家庭裁判所事務局長となる。
明治以来、法曹界初の女性「高等官」(2人目は10年後に東大法学部卒が)
園遊会で天皇・皇后両陛下にご挨拶。
退職後、専任を望まれるも辞退し、非常勤で退職者会世話活動。
国民学校一年生の会会員。
僕の37年間の夜学教師の生きがいの出発点の一つとなった。