最終更新日: 2018/05/10 |
平成三十年になって、偶然にも校内
から掛け軸が発見されました。作者は 川端龍子と記されており、美術などに 造詣のない私はそのまま放置していま した。小林正人副校長が、 「この方 美術界では有名な人ですよ」と指摘し なければ、そのままだったかもしれま せん。 川端龍子は府立第三中学校の 第二期生と記録されています。 文化 勲章を授与された美術界の巨匠だとい うことが分かったために、少々調べて みることにしました。 川端の年譜に よれば、明治十八(一八八五)年、和 歌山県和歌山市の呉服商「俵屋」の長 男昇太郎として生まれました。 十歳 の時に一家で東京に移住し、十四歳の 時に当時築地にあった東京府立第一中 学校分校に入学したとされています。 分校が独立開校し第三中学校となった ために、川端は第三中学校に在校して いたことになります。 在学中に読売 新聞社記念事業「明治三十年画史」に |
応募し、二点入選したことが、本格
的に画家を志すきっかけとなり、西 洋美術を学ぶためにアメリカ渡航を 準備し途中で退学したことになって います。 実際に渡米したのは二十 八歳の時ですので、その間は国民新 聞社に勤め、洋画家として油彩作品 の制作で腕を磨いていました。大正 二(一九一三)年、二十八歳の時に 単身渡米し、ボストン美術館等を見 学して歩くうちに、展示されていた 「平治物語絵巻」をはじめとする日 本の古美術とシャヴァンヌの大壁画 に感銘を受け、洋画家をめざしてい た川端は、日本画へと転向すること となったと伝えられています。洋画 家をめざし渡米したにもかかわらず、 日本画を見て感動したというあたり は、鬼才ならではの逸話と思います。 その後日本美術院展に入選するな ど院展の花形として注目を集める画 家となっていきましたが、昭和三( |
一九二八)年、四十三歳の時に院展を
脱退し、自ら「清龍社」という美術団 体を設立し独自の道を歩み出しました。 川端は「清龍社」において、日本画を 個人で鑑賞する「床の間芸術」から開 放され、大衆と芸術が接触することを 目的とした「会場芸術」を主張し、戦 中戦後にかけてこの理念を貫き通して 作品を作り続けています。その功績は 昭和三十四(一九五九)年、七十四歳 の時に結実し文化勲章の受章に至って います。 大田区に「龍子記念館」が あります。 文化勲章受章と喜寿を記 念して川端自身が設立したものです。 隣には、川端の住まいとアトリエが保 存されています。この龍子記念館に行 くと迫力ある会場芸術の作品を鑑賞す ることができます。 また、池上本門 寺の大塔の天井画「龍」は昭和四十一 (一九六六)年、川端の絶筆です。 空襲によって消失した池上本門寺再建 のために川端が作り始めたものでした。 |
しかし途中で病床の身となり、四月十
日八十歳で亡くなりました。「龍」は 「未完の完成」として奉納されたとい います。川端は自らを「龍の落とし子」 と名乗り生涯絵を描き続けた異才の人 でした。 晩年には、横山大観、川合 玉堂と川端の三人で「雪月花」や「松 竹梅」などの循作展を開いています。 本校で発見された掛け軸は「冬隣」 と記されています。水陰に隠れている 雀の絵です。 また、包には昭和七年 三月中田浅次郎代表禎」「太田興華氏 囑ツツシ」との記載もあります。 どうしてこの作品が本校にあるのか。 和歌山時代、よく鯉幟職人の処に行き、 じっと制作過程を観察していたという のが画家としての原体験のようですが、 川端にとって第三中学校はどのように 記憶されてたのか不明です。 改めて 学校では、彼の残した掛け軸を大切に 保存し、絵に対する壮絶な生きざまを 貫いた巨匠が在学していたという事実 を、後世に語り継いでいかなければな らないと思います。 |
「生きざまを見よ!」川端龍子
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校 長 |
鯨 |
岡 |
廣 |
隆 |
【 淡交会 会報 校長 御寄稿 】
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