寺 澤 捷 年 会 長 挨 拶
>
【 淡交会 会報82号より転載 】          最終更新日: 2019/05/14   
再び「校歌」を考える 淡交会会長 寺 澤 捷 年 ( 回)
 実は平成十六(二〇〇四)年
発行の『淡交会報』(五三号)
に、わたくしは校歌の成り立ち
について投稿した。しかし、そ
れは十五年前のことで、それ以
後の淡交会会員や現在の在校生
の皆さん、そして新任の先生方
の目には触れていない。そこで、
再び「校歌」の由来を記し、そ
の気高さを共有したいと考えた。
 校歌の作詞は当時の国語教諭・
吉丸二昌先生で、作曲は音楽教
諭・石原重雄先生であった。明
治三十七(一九〇四)年十二月
の事である。

     ☆
あけくれの御をしへに
 文の山わけて入り
あさゆふのいそしみに
 まなびの海こぎて行く
大君やすかれ御国のさかえ
 かかりて我等がもろかたにあり
山はさけ海原はあせなむも
 よしやわがこころざし動かめや
 操やもかはるべき
いざやいざや
 君のために国のために
  つとめよわが友
 いざやまなべ
  いざやはげめわが友
    ☆

 これは源実朝の『金槐和歌集』
にある「山はさけ 海はあせな
む世なりとも 君にふた心わが
あらめやも」を本歌にして作詞
されたと私は確信している。こ
の歌集は一二一三年の成立であ
る。当時の鎌倉幕府は東国の武
士団に支えられていたが、西国
の支配は十分ではなく、天皇家
との二頭支配の状況であった。
その天皇家との武力衝突を回避
したいと願い、実朝は和歌をと
おして忠誠を誓ったのである。
この政治姿勢のためか、実朝は
一ニ一九年に晴殺され、その二
年後に承久の乱(変)が起こっ
ている。
    ☆
 校歌にもどると、第一節で「
山に分け入り」、第二節で「海
に漕ぎいで」と楚々と前置きを
し、「山はさけ」のハイライト
(校歌の眼目)に導入している。
    ☆

 昭和二十(一九四五)年の敗戦
とともに日本は民主国家となっ
た。GHQ(連合国軍総司令部)
が日本を占領統治し、「校歌」
の新たな制定が求められた。と
ころが、我が校は「超国家主義」
の文言を改訂してこの事態を乗
りきった。国語の三室岩吉先生
のお陰である。昭和二十四(一
九四九)年のことであった。
「大君やすかれ御国のさかえ」
を「においゆたけき文化のさか
え」にし、「君のために国のた
めに」を「道のために国のため
に」と改変したのである。
 これが校歌誕生と その後の改
訂の経緯である。わたしたちは
素晴らしい校歌を持っているこ
とを誇りに思う。
60