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料
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2016年7月3日
第30号
編集・発行
淡交会資料室委員会
戸張誠之助(54回)
〒130-0022
東京都墨田区江東橋1-7-14
都立両国高校内
Tel & Fax 03-5600-1231
この1年間の寄贈・購入新着資料
校史関係
三高教室 177号
両国高校卒業アルバム2016
学校要覧 平成27年度 東京都立両国高等学校 同附属中学校
淡交会関係
会報委員会委員長 宇田川勝明(63同)
岡部憲明さん(63回)
伊藤 林さん(62回)
淡交会報 第75号 2015年12月10日
・淡交会総会 講演 「建築家の旅」創造の喜びを語る
・インタビュー 地城で愛される福祉型銭湯を経営
・あの先生は今 堀井弘一郎先生(68回・社会)
・講演会 「読むよろこび、書くよろこび」 小池昌代さん(75回)
・両国祭展示 資料室委員会「風立ちぬ 生を探求した作家堀辰雄」
環境委員会「地球環境とエネルギー問題を考える(第5弾)日本の温暖化
対策、電源構成はこれでいいのか」
会報委員会委員長 宇田川勝明(63回)
古澤宣慶さん(63回)
高崎浩さん(76回)
淡交会報 第76号 2016年 5月20日
・淡交会新年会 講演 「ゴータマ・ブッダと葬式仏教」
・インタビュー 夢をかなえ49歳で鉄道運転手に転職
・あの先生は今 星野浩一郎先生(62回・国語)
・会員の著書紹介
『 防犯・防災・警備用語事典 』 鈴木康弘さん(50回)
『 和漢診療学 あたらしい漢方 』 寺澤捷年さん(60回)
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(表中敬称略)
寄贈・購入図書
書 名 著者・編者
ポホヨラの調べ 新田ユリ(77回)
指揮者がいざなう
北欧音楽の森
風たちぬ 宮崎駿
ロマンアルバムエキストラ
堀辰雄全集 堀辰雄(29回)
第1巻〜第7巻
信濃追分文学譜 近藤富枝
馬込文学地図 近藤富枝
本郷菊富士ホテル 近藤富枝
新潮日本文学アルバム17
堀辰雄
東の堀辰雄 谷川昌平
その生い立ちを探る
わたくしの水脈 小林敬枝(55回)
小林敬枝詩集
芥川龍之介ハンドブック 庄司達也編
和漢診療学 寺澤捷年(60回)
あたらしい漢方
おめでとう 小池昌代(75回)
群像 第70巻第8号
オール讀物 第70巻第12号
堀辰雄文学記念館
常設展示図録
堀辰雄没後50年
特別企画展図録
堀辰雄生誕百年
特別企画展図録
最新 文化賞事典 日外アソシエーツ
(1996-2003)
最新 文化賞事典 日外アソシエーツ
(2003-2010)
後期 第11号
解釈 第61巻第7,8号
発行所
五月書房
徳間書店
新潮社
中央公論社
中央公論新社
中央公論祈社
新潮社
彌生書房
ながらみ書房
鼎書房
岩破書店
新潮社
講談社
文藝春秋
堀辰雄文学記念館
堀辰雄文学記念館
塀辰雄文学記念館
紀伊國屋書店
紀伊國屋書店
「後期」の会
解釈学会
発行年・版
2015- 4-20
初版
2013-10-15
初版
1954- 3-31〜
1957- 5-25
1995- 2-18
2014- 6-25 改版
2012- 7-10
2004- 1-30
1997- 7-15
初版
2014-10-29
2015- 4-25
2015-11-20
2013- 3-30
2015- 8- 1
2015-11- 1
2003- 7-12
改訂版
2003- 7- 3
2004- 8-10
2003-10-27
2011- 2-25
2014-11- 1
2015- 8- 1
寄贈者
著者
淡交会購入
淡交会購人
淡交会購入
室賀五郎(60回)
室賀五郎(60回)
淡交会購入
淡交会購入
著者
早澤正人
著者
小島基男(52回)
小島基男(52回)
小島基男(52回)
室賀五郎(60回)
室貲五郎(60回)
室賀五郎(60回)
伊東總吉(48回)
伊東總吉(48回)
須藤哲生(48回)
石尾奈智子
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堀辰雄の生涯にふれて
資料室委員 宮島安世(60回)
昨年 両国祭の展示作業にかかわらなければ、私は、一生堀辰雄(19回生)の作品に深くふれること
もなかったろうが、準備のため 資料をあれこれと見ているうち、いままで解ったことの中から メモ代
わりにしたものをまとめてみたくなり 記してみた。
◇ 幼少時代
昭和17年に刊行された「幼年時代」を読むと 幼い頃の様子がうかがえる 。明治37年 平河町で生
まれたが、2歳の時向島に移った。 幼稚園に行っても みんなの輪の中にはいれずに おぱあさんの手に
つかまって見ていた。 体の具合が悪くてやめたのでなく 。内気ではにかみやの性格のためか 馴染めず
に すぐにやめてしまったようだ。 近所の女の子と おままごとして遊んでいる様子が描かれているが、
その二人の女の子は、小説に出てくる節子、菜穂子の両者の面影があるような気がする。 彼が「あた
い」と自分のことを言っていたのも、職人や、小商人の娘が使うことばで、女の子たちの交流で 自然
に身についたのであろう。 母志気は、辰雄が中学受験の時、好きな酒と煙草を断って浅草の観音様に
祈願したという。 一高時代、下宿から家に帰って書いてきた詩を、母にみせるたびに「辰ちゃん原稿
料」と言ってお小遣いをもらったという。 養父の上條松吉からも可愛がられで、「うちの殿様」とし
て大切に育てられた。
そんな母を 19歳の9月関東大震災で失い。 隅田川で水死した母の位牌の裏には、「震(なゐ)わ
が母を見わけぬうらみかな」と、刻んだという。 これは、確かに彼の人生の中で 思い出したくないで
きごとだったにちがいない。
中学時代のことを 本人が書いた資料はみつからなかった。
多恵子夫人の手記によると、浅草の「龍昇亭西むら」という 和菓子屋の若主人 西村勤さんが、三中
時代の友人で大変ゆかいな人、油絵を描き 其の個展を辰雄も見に行き 一緒に浅草で飲んできたことも
あったという。 「浅草の小説を書けよ。 そしたら 菓子ぐらいいくらでも 心配してやるよ」と、御菓子
も自由に手に入らない頃に言っていた。 死ぬ前年、病床の信濃迫分まで見舞ってくれた 生粋の江戸っ
子で、辰雄びいきだったという。 「西むら」は、安政元年創業で、栗むし洋羹など、雷門通りで 現在
も続いている店(電話は、03−3841−0665)である。 また、辰雄が、夫人に語ったのだと思うが、中
学時代は 大して成績が上位であったわけでもなく、作文も上手ではなかったが、3年頃から成績があ
がり、代数、幾何、特に幾何は得意で よく黒板の前に出て 教師のかわりをさせられた。 文学書は蘆花、
藤村、鏡花の小説を少し読んだぐらいだそうだ。 国文学者の 内海弘蔵の家が近くで、親交があり、
「麦わら帽子」にでてくる少女のモデルに、娘さんがなったという。 後年は、静かに昔をなつかしみ
楽しい話をしてくれたそうだが、突然「青春を回顧することは、いやなものだね。 ただ生意気だった
ことなど思うと不愉快になるよ」と、怒ったように言ったこともあるそうで、夫人は、びっくりした
−3−
そうだ。 何か嫌な思い出もあったのかもしれない。 しかし、そのようなことは、書かない作家だと思っ
た。
◇ 文学について
数学者を夢見ていた辰雄が、神西清(一高時代からの友人で 良き理解者)から、萩原朔太郎の詩の
存在を教えてもらい 詩の世界にのめりこんでいった。 これは、詩を勧める 芥川の影響もあったろうが
メリメや、プルーストに影響をうけたのもいうまでもない。 神西は、「堀辰雄文学入門」の中で、「堀
の文学展望を試みる場合 小説とか、エッセイとか、随筆とかいう 形式上のジャンルの区分けはほとん
ど無意味で、すべて堀辰雄作品という 一種の名のもとに統合されるにふさわしい。 恋愛小説などとい
う外面的分類方法は役にたたないし、生の文学、死の文学というふうに はっきり 二つの類型がわかれ
てあらわれるものではない。死、愛、生にもてあそばれる 人間の微妙に屈折した 心理の綾を解析、幾
何学のような 正確さで追及して 内的リアリズムの道をゆっくり歩んでいた」と、述べている。 しかし、
文学的評価は様々で、例えば 白洲正子と車谷長吉の対談でも 二人は、堀よりも永井龍男の方を評価し
ていた。 私もそれから、永井のものも読んで その作風の違いを感じた。 堀は、能の世界、永井は、歌
舞伎の世話物に通じるのではと思った。 それなら、白洲正子は もっと徹底的に堀作品を読んでほしかっ
た。 「風立ちぬ」について2010年1月の 多恵子夫人へのインタビューで、「あれは恋愛小説ではな
いんです。 命の大切さを伝えているんです」と、語り、「菜穂子」について、別の述懐で、「菜穂子も、
明も おれの分身なのだ。 幼い頃から夢に生きようとする自分、そういった夢をあきらめて 現実に即し
て生きようとする自分、その二つのものの葛藤を 菜穂子と明に託しているのだ。 菜穂子もおれの分身
だし明もおれの分身なのだ」という、辰雄の弁を述べたという。作家は多かれ少なかれそうであろう
が、存在した人物のイメージを重ねてつくりかえるのかとも思う。 あれは、誰がモデルかとか 周りの
詮索がうるさくて、妻の女心を配慮しての 弁かもしわない。
◇ 本について
芥川は著書の中で、「重苦しい現実の中に明るい方向を示してくれるのは本であった」というほど
本好きであり、速読法でひと夏読んだ本は、古本屋に払い下げる。その古本屋に運ぶ役が、堀であっ
たという。 堀は、ゆっくりじっくりと 色鉛筆で模様や枠線で囲んだりする。 没後読書ノートが沢山で
てきた。 「19世紀文学史」など、大学の一般講義に使えそうなものまで準備していたそうだ。 夫人
によれば、読書が好きで、「お金があったら綺麗ないい本だけだす本屋をやりたい」 などと、夢を見
ていた日もあった。 本の装幀にも 大変熱心であり、単行本を自分で編集するとき 題名を変えたり文章
を書きかえたりすることが多く、編集に携わった方は大変だったらしい。 胸をわずらわなかったら、
出版社をやりたいとも、言っていたようだ。 収集した本の数がだんだん増えて 昭和27年に書庫をつ
くり、整理した。 フランス語の本に色違いの紙でカバーし、背に日本語で表記。 配列順も決めてあっ
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たのに 出来上がった書庫を見ずに 昭和28年 逝ってしまった。
◇ 性 格
芥川も堀も 孤独な作家であったが、芥川は、気弱さを世間にみせまいとし、独特な皮肉で表わすが、
堀は、気弱さをできるだけ自分の表面にもちだそうとしていた という。 つまり、ありのままの自分を、
弱さを 他人にある程度みせられる人だったのではないか。 他人からあまりかまわれるのも嫌で、女中
さんにていねいに扱われる旅館より ホテルの方が好きであり、日常生活でも家人を、いたずらに煩わ
すことを避けた。 人との付き合いも 自分から押していくことはないが 来てくれる人にはもの柔らかだっ
た。 夫人が「あの人は嫌い」とか、「あんな嫌な人はいない」などと、荒っぽい言い方をすると 「付
き合いは 淡々とするものだ」と、いいきかされ、人のことをあまり口にだして 悪くいったりするのを、
聞いたことはなかったそうだ。 しかし、言わなくてはならない時は、はっきりという。 学生の頃 神西
が、朔太郎のことを、頻繁に批判して話すので、「朔太郎のことは、自分の前でもう話さないでくれ」
と断ったという。 夫人を、鹿教湯にきている姉一家の所へ送るとき 田舎のパスが 途中あちこちと客を
乗り下りさせていて 汽車の時間にまにあわなくなると 夫人が心配になりはじめていると、辰雄が「下
りに乗る人があるのだから早くしてくれ」と、怒鳴ったという一面もある。 夫人と野尻湖に旅した
「晩夏」という小説の中でこんな一節がある。 「旅の途中 二人分の簡単な身のまわりの物だけつめこん
できた例のラケット入れは 相当重くなったが そんなものを女に持たせるのはどうかと思うので 最初の
うちは 自分でいかにも颯爽と持って歩いたが すぐへばってしまった。 で、時々妻に持ってもらって 人
なかに出るときは 急いで私がもちかえたりした。 そして私がやせ我慢をしいしい歩いているのを、妻
は側で 心配そうに見ていた。」 ここには、いいかっこしいの姿が隠さずに正直に書かれていて おもし
ろかった。 妻に出す手紙も、最初 結婚前には、すごく丁重な言葉使いだが、だんだん乱暴に変化して
いった。 でも感謝や、思いやりの言葉などは忘れないで書くという 人柄のわかるものだった。
◇ 多恵子夫人
婚約者の矢野綾子が亡くなり 3年後、室生犀星の紹介で 加藤多恵子と結婚した。 昭和13年辰雄3
4歳の時だった。 多恵子は、東京女子大の英文科卒で、年は9歳下だそうだが、姉と、弟がいて、一
人っ子だった「辰ちゃん」とは違って しっかりした面が多かったとおもえる。 辰雄が奈良旅行から 締
切間際の原稿を書けないまま帰って来たとき、怒って泣いた夫人から かなり発破をかけられてか、
「曠野」を2日間で書き上げたという。 或るとき 辰雄が夕食の箸もつけない時があって、癇癪もちだ
という夫人はお皿のものを 縁側から庭先に捨ててしまったが、辰雄の目尻から一筋の涙を見てそのあ
と、子供のようにしゃくりあげながら、辰雄が食欲のない時でも どうにか喉を通る一口のごま塩のお
にぎりを作ったという。辰雄は、夫婦が一緒になって客と歓談するような家庭、妻が夫とは独立した
意見を表白する家庭を、望んでいたという。 しかし、辰雄の病の世話は、相当大変であったと、想像
−5−
する。 堀は「さりげなく」とか、「うつけたように」という言葉を文中よくつかうが、「さりげなく
結婚した」という一文もあった。 しかし、「風立ちぬ」の最後の章は、夫人とつきあいはじめてから
書き上げたもので、多恵子夫人の存在は、辰雄の新生に大きく影響したと思う。 妻に出した手紙がベー
スになって、昭和18年発表の「10月」も、出来上がっている。 二人で翻訳した本もあるし、良き
パートナーだったにまちがいはない。
◇ 病との闘い
昭和25年8月 高熱が続き 初めて新薬ストレプトマイシンを使い命が助かった。 2年前の時は使用
を遠慮した。 パスとか、ヒドラジッド、ティビオンなど 試薬の段階であった。 大気安静療法を唯一の
手立てとするしかなかった結核の治療で、失敗した人も多かったという。 ストレプトマイシンの副作
用は 2、3か月すると頭を動かすと 目が回ると言い 寝がえりも、一人ではうてなくなった。 脳貧血か
と思ったり、メニエール病を考えたり、耳の病気かもと、小諸の耳鼻科の医者に往診を依頼したこと
もあった。 ティビオンを飲み始めてから血痰が多くなり この薬を止めたいと、言っていた。 でもまあ
もう一度と思ったことが 悪かったかもと、夫人は述べている。 あるとき、「こんなに苦しむくらいな
ら、もうなんとか死なしてもらいたいな」と、辰雄が呟いたとき、その苦痛に引きずられるように
「-緒に死にましょう」と言う夫人の顏を見上げて 「僕が自殺したら 僕のいままでの作品はみんな僕
と一緒に死んでしまうだろう。 わかるか? 僕の努力はみんなむなしくなってしまうのだよ」と言われ
その言葉ばかり考えて暮らしたという。 辰雄は、芥川の自死を否定しながら生きてきたから 当然のお
もいではあったろう。 しかし、症状変えて襲ってくる不安の中で 何か大きな力を求めていたころ、キ
リスト教の神であったり、仏様であったりした時もあったようだ。 が、神は信じてもイエスは信じら
れない と言って本を読んだり、宗教家と話をしたり、教会にいくようなことがあっても、信者にはな
らなかったようだった。 「人間の苦しみには限界があってその極限が死なのだ。」というリルケの言葉
を引用し 「死がくるまで苦しみに耐えられるというわけだな」と、辰雄は明るく言って、これが、彼
にとって 大きな救いで 病気の苫しみを読書によって紛らわしその中から生きる言葉を探していたとい
う。
◇ 戦時下の暮し
夫人の手記によると、昭和16,17,18年は、健康状態はよかったという。 杉並の夫人の実家の
庭に新居をつくったが、母が亡くなり 夫人の未婚の弟が一人残されたので、終戦の前の年 追分に移る
まで 母屋に夫婦と弟と、足の悪い辰雄の叔母とが住んで 新居は人に貸した。 世界の情勢は緊迫して 避
暑のような生活は許されなくなり 移動申告するにも 交番のおまわりさんと、嫌な問答をしなけれぱな
らなかった。 外国の日記、編集などの翻訳本も出版されなかっだ。
弟が世帯主だったので、戦時中 隣組の人たちに気兼ねなく旅にでられたという。 追分に移ってから
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も 弟はいるが、隣組活動の協力をせねばならず、夫人はお手伝いさんと入れ替わって 東京に帰ってい
た。「辰雄の兵役は、第二乙だったので、召集がくれば どうせ帰されるとわかっていても こればかり
は、女房が代理はできないので 気にかけていた。 戦争の直接の被害はこうむらず 幸せな夫婦であった
かもしれないが 精神的にも肉体的にも苦しみ 戦後8年ながらえたとはいえ 戦争さえなかったらという
私の悲しみは、大きく深いのです」 と夫人は手記で述べている。 戦争が激化していたとき 堀は左肩を
帯状疱疹でやられ 夜も眠れない痛さに、人力車で阿佐ヶ谷駅近くの医者に通っていたという。 戦後に
なってから、堀が 戦争の時代をどのように考えていたのか知りたくて、書簡集など探してみたが、 昭
和20年8月で、「ぼんやりとした眠たいような心…。 ただうつらうつらと日を暮している。 まあ、
シェイクスピアの「真夏の夜の夢亅でも読むのにもってこいのやうな気分といえばよい」 という気持
ちを吐露してあるが、この時代に対する考えを知る資料は みあたらなかった。
◇ 没 後
昭和28年5月28日 夫人にみとられ死去。 葬儀は堀家の墓のある高徳寺の本堂が戦災で焼失し 復
興していないので、芝の増上寺で 川端康成葬儀委員長のもとで行われた。 芥川も、戒名はいらないと
遺言したが 自分も必要ないと、辰雄も戒名はつくらなかった。 墓は 堀家は青山の高徳寺にあるが、入
りたくない、といって 上峰の墓にははいるわけにいかないので、夫人の両親のお墓まいりに多摩墓地
に行った際に横長の墓を見て「ああいうお墓はいいね」と言っていたのでそこに決めた。(多摩霊園
12区1稙3側29番)3回忌に納骨、その5年後に 上篠の両観の分骨を願いでて 辰雄の墓に納めら
れた。 夫人は養女(姉の長女を養女に入籍していた)と、東京で3年暮らしたが 養女が結婚し 一人の
生活になった。 平成22年4月16日 97歳で肺炎のため軽井沢の自宅で亡くなられた。
◇ 最後に
堀辰雄は、交友関係も多く 年上からも、年下からも愛され慕われた人柄だったと思う。 追悼文にも
著名人が ずいぶんと書いている。 自分が病気ということもあるが、自分と相いれないものは切り捨て
ることができた。 「政治活動することはできない。 自分の素質とは全然あわない」と言っていた。 左
翼からも、右翼からも批判をうけたようだが、左からの批判の方が つらかったという。 といっても、
中野重治、佐多稲子など 交流は続いて、戦後昭和22年 第1回参議院選挙で、中野重治が共産党から
出馬したとき、推薦者になったという。 辰雄の書いたエッセイの中だったか、「他人の悲劇への参加
(けれども それ等のさしでがましい助言者にも 又ひややかな目撃者にもなりたくはない。 ただその傍
らにじっとしていて、それだけでもって 不幸な人々への何かの力づけになっているような者になって
いたい)」 と言う一文があったが、リルケの言う 人間の悲しみというものを大事にし、日常のささや
かなことの中から 楽しみをみつけようとし、生き抜いたのではあるまいか。 一高の交友会雑誌に「快
適主義」というエッセイがあり、「この苦患に満ちた人生の中を どうしたら快適に散歩し続けていけ
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るかが 私にとって第一のそしてまた最後の問題なのだ。 一体もしこの人生から苦患というものがなく
なったら、生存することが、どんなに退屈で味無いものになってしまうだろうか」 と、すでに書いて
いたのだ。
後年、ある一つの世界をクリエイトするような仕事がしたいと、言っていたそうだが、「大和路
信濃路」の中で「そうだ、2,3年勉強して 日本に仏教が渡来してきて その宗教に次第においやられ
ながら 遠い田舎のほうへ流浪の旅を続けだす 古代の小さな神々のわびしい後姿を一つの物語にして描
いてみたい。 それらの流滴の神々にいたく同情し 彼らをなつかしみながらも、新しい信仰に目覚めて
いく若い貴族を ひとりみつけてきて 小説の主人公にする」と希望していたが、かなえられなかった。
芥川との師弟関係は、芥川の没後、堀が帝大の卒論で書いた「芥川龍之介論」を読むと、いかに芥川
を敬愛していたかが解る。 (そこでは、あえて芸術家としての芥川論にとどめてあったが)芥川が も
し、彼のおかれた家庭環境と、時代が彼の自由を束縛しなかったら、そして堀辰雄のように、人と人
の 淡々としたつきあいができた性格であったなら、早く生涯を終わらせることもなかったろうにと、
私は感じた。 堀辰雄という、暖かい気持ちの持ち主で バランス感覚のあった先輩が、もしご存命なら、
今どんな作品を書こうとされるのか等、もちろん三中時代のことも、お話を聞かせてもらいたいのに
と残念に思った。 完
○ ご報告
去る6月9日の午後、資料室委員会のメンバーが、日本近代文学館を調査・見学に訪れました。 こ
こは、明治以降の文学者を対象に 文学関連資料を収集・保存する施設で、約120万点の資料を所蔵し
ています。 調査の目的は、わが府立三中の「学友会誌」の存在を確認することです。 職員の方が調べ
てくださったところ、残念なことに、ここにあるのは66号(昭和11年12月発行)および72号(昭和15
年12月発行)の2冊のみでした。 また、当日は、“近代文学の150年--夏目漱石、芥川龍之介から戦後
作家まで--”と題する展示を開催中で、芥川が子息たちに宛てた遺書「わが子らに」や、菊池寛の 芥
川に対する弔辞などをはじめとして、数々の貴重な資料を見学することができました。
○ お知らせ
WEB委員会のご尽力により、淡交会報1〜40号が淡交会ホームページに掲載されています。
ぜひ、ご一読されることをお勧めします。
<資料室委員会メンバー>
願問 田村 光(48回) 伊東總吉(48回)
委員長 戸張誠之助(54回)
委員 宮島安世(60回) 原口 孝(62回) 青木 弘(92回・両国高校教員)
事務局 森元忠夫(60回) 室賀五郎(60回)
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