作成日:2018/08/30 by AM   

 昭和35年(1960年)4月から昭和59年3月まで、定時制を含め24年間、両国高校で数学科教諭を務められた光山保士先生(81歳) から、教師生活を振り返るご寄稿をいただきました。

 昭和35年に大学を卒業してすぐに両国高校に数学の教師として着任、最初の2年間は、定時制に勤務しながら全日制の非常勤講師を させていただき、昭和37年から全日制専任になりました。
 着任した昭和35年は、60年安保闘争の年で、学生運動も活発で世の中は騒然としていました。
一方、両国高校は創立60周年にあたり、戦災を被った校舎も綺麗に改修され、いろいろな祝賀行事が行われました。
 当時は、学識豊かな先生方が内容の濃い授業をされており、学習指導も大変厳しいものでした。
若かった小生などは、いかにしたらべテランの先生方に近づくことができるのか試行錯誤の連続でした。
優秀な生徒諸君からも多くのことを学び、教師生活の長い期間を両国高校で過ごさせていただいたことに感謝しております。

 ☆ ☆ H30年3月の63回生同期会で挨拶される光山先生 ☆ ☆ 

☆ 同期会で話される光山先生 ☆

両国高校では、能力に恵まれた生徒達を鍛え、将来有為な人材になってほしいという願いから、勉学は大変厳しく、 生徒諸君もよく耐えて頑張っていました。
夏には、1、2年生は2週間、3年生は3週間の夏期講習がありましたが、欠席者もほとんどなく、暑い盛りに冷房もない教室で 熱心に授業を受けていた姿がいまでも強く印象に残っております。
一方、クラブ活動、両高祭などの課外活動も活発で、自主的にそれぞれの個性が発揮されていたように思います。
HRも、学期ごとにHR委員会で生徒が自主的に計画をたて、運営をしていました。
図書委員会、修学旅行委員会、厚生委員会等も、それぞれ生徒が自主的に運営していました。
着任してすぐ、厚生部の担当だったのですが、3年生の厚生委員長が委員会の招集をかけ、清掃用具の整備から 清掃等の指示が手際よく出され、教師が手を煩わされることがなかったことが思い出されます。
自分たちで出来ることを教師から指示されるのは恥 と考えていたように思います。
 その後の社会情勢や都立高校をとりまく環境の変化等により、在職した24年間に両国高校も変貌しましたが、 教育に対する姿勢は変わらなかったように思います。
先輩達の培った良い伝統や校風は、今後も引き継いでいってほしいと願っております。
 都の制度の変更で、同一校に長く勤務できなくなり、昭和59年4月からは、都立小山台高校に転勤となりました。
小山台高校は旧府立八中の伝統校で両国高校と似ていたため、違和感なく勤務することが出来ました。
学識豊かな諸先生方と優秀な生徒諸君に恵まれて、両国高校と小山台高校で、大過なく職を全うできたことに感謝しております。
 最後に、卒業生の皆様には、両国高校で鍛えられた精神力と集中力を発揮して満足のいく成果をあげられますようお祈り申し上げます。

淡交会報80号より転載