横田 光三 (40回)
友人 小島昌夫君は、三中40年入学の 同期のなかでも 旧制一高に入学した、紛れもない秀才のひとりであった。
大学卒業後 母校の教諭を勤め、併せて 同期 始終回 (40をもじって) の幹事を 長年に亘ってやってくれた。
最近 同君の依頼もあり 日頃考えることを 同窓会報に投稿することにした。
私は 旧制一高、東大を卒業して 日本電信電話会社(NTT)に入社した。 NTTに入社した時は、
電話屋であったが 40年後には 日本のIT産業の最先端を走る巨大組織に成長していた。
在勤中、3年のニューヨーク駐在員をやらせてもらえた。 当時 電気通信で世界一といわれた(トランジスター、
グラスファイバーといった 劇的な発明は 何れもここで誕生した)ベル電話研究所を NTTの研究者と一緒に しばしば訪れることができたのは 望外の幸せであった。
ある時 研究所の所長に “世界一といわれるベル研究所が 日本から研究者を受け入れて ディスカッションの機会をもうけているのは有難いが 何如ですか” と尋ねたところ
“世界一を維持するためには 常に世界の研究の動向を追っていなければならないからです。
だから対象は日本に限りません。 ドイツからもフランスからも来ます。”
自分のところが 世界一級であっても 世界の動向から目を離さないという、アメリカの研究の片鱗を 垣間見た思いであった。
NTT最後の10年間は 小さいながら NTTと米国の通信会社ITTの共同出資によるコンサルタント会社の責任者をやらせてもらった。
この会社にいたおかげで、過去よりも未来のことを考えるくせがついてしまった。
あるとき、本屋の立ち読みで 『 ドラッカーの遺言 』 という冊子にぶつかった。
「かつて隆盛を極めた日本の歴史こそが、20世紀の世界史そのものであり、現在の世界経済を生み出したのは日本である」 と礼賛した
ドラッカー が
今度は手厳しく 「今日本が直面しているのは不況という危機ではなく、グローバル化という時代の変わり目にあることの意識の欠如にあるのです」 という
数行にぶつかり 愕然とした。( 講談社刊 『 ドラッカーの遺言 』 )
そうして “具体的に日本は 「農業」 と 「銀行」 の保護主義をやめて 情報技術の分野で イノベートする術を学び、
進展する情報経済のなかで リーダーとならなければ 日本が生き残る道はないでしょう” と手厳しい要点をついたアドバイスが記述されていた。( 同書101頁 参照 )
“その後幸い 「農業」 については TPP参加という形で 解決の道は開いたが、「銀行」は いまだに19世紀のヨーロッパ並みです。
日本の東京大学に アメリカのようなビジネススクールがないからです” と鋭いアドバイスを受けながら、未解決のまま進展は見られない。
なお ドラッカーは 2005年 日本に上記の口述をした後 急逝している。
筆者も ドラッカーの名著に会えての 長生きも、満更 わるくはなかったかな、と思う 今日 この頃である。
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