両国高校ハンドボールクラブ

3,4期生の記(S26〜28年度)

(鬼にしごかれて−黄金時代の到来)


*しごき抜かれた一年次(S26年度)

 「君、ハンドボールをやてみないか?。おもしろいスポーツだぜ。」 「両国で全国大会に出られるのは、ハンドボール部だけだヨ。どうせやるならウチが一番だぜ。」少々体格がよくて、モノになりそうな新入生(及びたまたまその傍にいた筆者の如きヒヨワな男)に対しる2期生、3期生の甘い囁きにその気になった者。

 或は永井先生直々の「業務命令(入部命令)」で無理矢理、口説きおとされた者。併せて20数名がハンドボールとは如何なるスポーツかもよくは知らぬまま、フラフラと入部して4期生のハンドボール部生活が始まった。

 週3回の練習日。最初はボール磨き、ボール拾い、キャッチボール程度の軽いものだったが次第に2期生の「しごき」に熱が入ってくる。折しも「サマー・タイム」とやらで日が暮れるのは8時過ぎ。毎日走らされる距離は1万mを遥かに超えていただろうか。基本の一つのキャッチング練習が毎日の締めくくり。1つ、2つ、3つ、……7〜8mの距離から情容赦なく力一杯投げこまれる先輩、チームメイトのボールを数10球、それぞれがノーミスでキャッチングしないと練習が終わらない。薄暗くなってくると「ボールに石灰をつけろ!」。余りの猛練習に耐えかねて脱落するものも、ポツリ、ポツリと出てくる。そしてしごき最高潮は柔道場に蚊帳を吊って寝泊まりした夏休みの合宿。米は各自持参。先輩が泊りこんで蚊帳からはみ出たものは屋上の講堂の雛壇で毛布にくるまってのゴロ寝を余儀なくされる。

 それ迄少しは仏面(ホトケヅラ)を残していた永井先生及び2期生がその仮面をかなぐり捨て、「鬼」に徹してくる。特にリーグ戦で世田工に敗れ、優勝杯をもってゆかれた2期生はその怨みの全てを我々にぶっけてくるかのよう。更には当時の我々にとって「神様」の如き1期生(今考えれば、たかが大学1年生に過ぎないのに、当時は雲の上のエラーイ人に見えたもの)も「激励」に来校され大学仕込みのシゴキを伝授していく。

 身体中の筋肉がコチコチになり、トイレにしゃがむのさえやっと、夏期講習と重なり午前中練習がなかったのがせめてもの救いで、普段は勉強嫌いのくせにこの時は机の前に座っていられるのが有難いことこの上なし。起き抜けの早朝練習が免除(朝メシ準備)され夕刻も一足先にあがれる(晩メシ準備)食事当番の順番がくるのが楽しみだった。

 そう言えば1日50円(?)だった副食費で少しでも豊かな食膳をと、夜間パチンコ屋に缶詰稼ぎに行った当番が意に反して手ブラで戻り、朝食は醤油に納豆を「浮かべ」て飯をかきこむ始末となったことなども、今となっては楽しい思い出の一つ。

 猛練習は秋、冬と続き、その間京橋商業高校など弱いチーム(京商さん失礼!)をみつころって練習試合に勝つことなどを通じ、何とかチームとしての形が出来てくる。そして2期生の卒業。その送別会で菅野主将が残した言葉[お前ら、来年度は優勝なんかとても無理として、2部だけには落ちるなヨ!這い上がるのに1年かかるからナ。」を噛みしめながら4期生の1年次が終わる。


*必死の2年次−S27年度

 大黒柱の3期生叶内先輩と1年間の猛訓練に耐えて、残った10名そこそこの2年生で構成された新チームの公式戦は憲法発布記念トーナメントでスタートする。一戦々々、無我夢中で走り廻り、終わってみたら勝っていたという試合の連続で勝ち進んだが、決勝戦で惜しくも世田工に敗れ2位。然し、必死でやれば何とかいけるという自信を得たのは大きかった。続いて春のリ−グ戦。各校とも、日頃の練習量の差もあり、憲法大会以上に力をつけて来ている。だが我々も病気療養中だった3期生の高橋さんがFWに復帰し、強敵相手の時は病身をおして出場、得点力が倍増している。2年生も一人々々の力不足をチームワークでカバーする術を一戦ごとに身につけてゆく。そして宿敵世田工と彼等のホームグラウンドでの藪蚊に食われながらの事実上の決勝戦。一進一退の接戦が続き、同点のままタイムアップが近づく。延長戦必至と思われたその時、いつもはゴール前の守備に専念しているFB鈴木君が、いつの間にかスルスルトゴール前に出て来ていてノーマーク・シュート。この一点が決勝点となり夢にも思わなかった優勝杯を手にする。弱卒を叱咤激励しつつ獅子奮迅の活躍をし、真黒に日焦けした叶内主将の目ににじんだ涙が無言で語っている。

 「見てくれ、1期生、2期生、伝統は守り抜いたゾ」と……。

 鎌倉学園との東神定期戦にも勝ち、尾張一宮での東日本選手権大会に駒を進める。1回戦で地元犬山高校と対戦。初めての全国大会であがったのか2年生はボールが手につかない。生憎の雨中戦で得意のコンビプレイも発揮出来ない。結局、叶内、高橋、両3年生の活躍のみ目立って一敗地にまみれた。前夜の旅館の心づくしの夕食、ビフテキとトンカツ(即ち「敵に勝」……その頃は大変なご馳走だった)の甲斐もなく……。

 続く夏のインターハイ予選、秋の国体予選は週6日の練習量にモノを言わせてメキメキ力をつけた世田工に何れも決勝で敗れ、次年度を期しつつ叶内、高橋、両3年生を送り出した。


*余裕の3年次−第2期黄金時代の到来(S28年度)

 3期生2名が抜けた穴を5期生で補った新チームは、都内では最早、向かう所敵はなく憲法大会リーグ戦の優勝をはじめとして都下公式戦は無敗で通す。(因みにこの年初めて文体部予算で硬式野球部を上廻る予算58,000円が文句なく認められた。)従って狙いは全国レベル大会でどこ迄好成績をあげられるかにあった。(勿論夢は当時圧倒的強さを誇っていた愛知・桜台高を破っての全国制覇。)

 その最初は桐生市での東日本選手権戦。1回戦はシード。2回線甲府二高を一蹴して準々決勝で桐生工業(優勝校)と対戦。これに勝てば優勝に手が届くという一戦だったが、結局8対5で惜敗し、1回目の夢は消えた。

 続いては駒沢でのインターハイ。2回戦で九州の雄、1回戦で仙台育英を13対2で敗り意気昂る熊本濟々黌との対戦。試合は前半6対5でリード、後半も途中まで押し気味に進み、終了15分前迄は2点リード。然し、この日の異常な暑さのせいかその頃から味方の動きがにぶり、点が入らない。その間敵は1点又1点と得点し遂に12対10の2点差で又も敗退して終った。

 因みにこの日(S28,8,21)の気温38.4°Cは今まで気象庁開設以来の東京の最高気温記録とのこと。

 夏のインターハイで三年生は引退するというのが受験校である我校の慣習。全国制覇のはかない夢は消え、後事を5期生以下に託して勇退することとなった。


*国体への出場

 秋の国体予選が近づいてくると、一旦引退して後輩(特にこの年に創設した女子部)の指導に専念していた筈の我々4期生がなんとなくソワソワしてくる。

 「2年生では世田工には勝てないナ、又国体は世田工のものか」「俺達が出れば間違いなくとれるのに勿体ないナ」「どうだ、予選丈でも俺達で勝ってやって、本大会は好きな者丈2年生と一緒に出るというのは……」

 夏で引退するという不文律をやぶることに何となく気が咎めつつも、いつの間にか3年生予選出場のコンセンサスが出来て了う。そして例の如く世田工との決勝戦をFW全員が1点づつとるという珍しい形で5対2で勝った頃には、又々全国への夢がムラムラと湧いてくるのを抑えることが出来ない。「お前どうする?行くか?」「お前が行くなら俺も行きたいナ」「1週間か10日だろ。勉強は後でとり返せばいいじゃあないか。浪人したらした時、落ちるときはどうやったって落ちるんだしナ」

 結局3年生は全員出場ということになる。(国体出場が出来るものと思ってボール拾いに精を出してくれた5,6期生の諸君、勘弁してくれナ)

 学生服の胸に支給された東京都のマーク(これ以外に支給されたのは国体バッチトベルトバックル丈。揃いのブレザーなど勿論なかった)をつけ、学校中庭での全校生徒による激励会の後、付添って下さった小倉校長と共に国体選手専用列車で愛媛に向かう。

 宇高連絡船を下りて四国に入ると、駅々或は線路の傍の道々に日の丸の旗をもった歓迎の人の群れ。「流石、国体は違うな」と、こちらも手を振って喜んでいたら、実はこの人の群れは我々の列車の後を追走していた天皇、皇后両陛下のお召列車の歓迎陣であり、お召列車が我々の汽車を追い抜いて了った後は、人の群れはかき消す様になくなって了い、大笑い。

 それでもハンドボール会場の今治市につくと、市長が出迎え、ラジオ記者のインタビューがあったり、今治名物光饅頭と特産のタオルの差し入れがあったりしたのは、それ迄の大会と一味ちがう経験だった。

 100名を超す地元吹奏楽隊のファンファーレが鳴り響く中、松山市堀の内競技場での開会式に参加した後、今治に戻って愈々試合開始。

 地元新居浜工業との1回戦を10対4で危なげなく勝ち、2回戦は相手校の青森高が棄権。準々決勝で函館工業と対戦。試合は白熱し6対6で延長戦に入る。その後半谷口主将がゴールを決めこれで勝てると思ったが終了直前に又も同点とされる。「準々決勝迄は再延長なし」のルールにより抽選となり、勝負はキャプテン同志のジャンケンの結果に委ねられた。

 我々が泣きじゃくっている間、小倉校長が選手一人一人の靴を丁寧に揃えて下さっていた姿が今でも目に焼きついている。

 この最後の試合、白井君が途中で腕に負傷した(後で医者に行ったら骨折していた)にも拘らず、最後迄痛みを耐えて頑張ったが、この事は「チームワーク」を相言葉に3年間戦って来た我々4期生を象徴する出来事にも思える。勝者函館工は桜台高に決勝で8対6で敗れ2位、従って我々も記録には残らないものの「実力全国2位」だという満足感と、それでも到々桜台高と直接雌雄を決する機会をもち得なかった無念感とが微妙に入り交じった思いを抱きつつ、4期生の両国高校でのハンドボール生活は、今度こそ本当に終わりを告げた。

小倉校長と永井先生を囲んで

「小倉校長、永井先生を囲んで…国体出場選手」


 兎も角も3年間よく走り、よく戦った。走った距離は1万キロにも達するだろうか。最後になるが、その長くて短い距離を一緒に走りながら指導して下さった永井先生及び先輩諸氏に「本当に有難うございました」と申し上げ、更にいつの日か後輩諸君が我がハンドボール部の輝ける伝統を復活し、全国大会に駒を進めることを希いつつ、「3・4期生の記」の筆を措く。



表彰状(優勝)

「表彰状(優勝)」


 第4期 ≪村上秀夫 記≫ 40年史より再録