高校に入学し、数か月のことだったかと思うのだが、美術の時間であったか、セピア色の動画に
芥川龍之介と川端龍子が映されていた。
勉強に勤しむ雰囲気の中、何故か記憶の片隅にある。半世紀ちょっと前のことである。
私は、還暦を前に、これからの暇の折のことでもと、短詩型の文学、短歌を作り始めた。
そこで、芥川はじめ二、三の作家なりにふれ、私の散歩道での思い出を短歌を交え、
記してみることにしたい。
明石町界隈歩けり
明石町 明治の初め公館や
学校外人居住地なりし
明石町 聖路加病院聳え立ち
学校発祥跡の幾つか
耕牧舎 牧場営む家とあり
芥川生誕の地と記さる
明治の初めの頃は、今の都心も牧場があったりしたのだ。
母校の下車駅錦糸町の南口には、駅近く伊藤左手夫の碑がある。彼は牛を三頭飼い、
搾乳業を営んでいたという。
龍之介は、芥川家の養子に入ったのだが、実父の新原敏三氏もまた、新宿2丁目で
牧場を営んでいたという。
副都心にも入るのではないか、ビルの立ち並ぶ様からすると、現在の錦糸町辺りは。
想うに、牧歌的な時代であった。
子規の後を継いだ左千夫を思い出した折故、そこで次なるは、現在の千葉県山武市だったか、
伊藤左千夫生家及び資料館を訪れる。
大海を詠う左千夫の歌碑がある 九十九里は本須賀の浜
生家には 歌誌創刊の名となりし アララギの木の植えられたりし
資料館 そを記念してか企画展 左千夫生誕百五十年
山梨県立文学館にて
自殺後の 返礼句集の用意まで
澄江堂の覚悟の為せる
甲府の市内に、ミレーのコレクションで知られる県立美術館と、同じ芸術の森公園内に山梨県立文学館があり、
山本周五郎、井伏鱒二等、山梨と縁ある作家の展示室もあり、芥川の閲覧室も設けられている。
周五郎は韮崎出身であったか、また、鱒二は釣り、いで湯等甲州との行き来、交流がある。
澄江堂とは、田端の文士村と言われた時代の芥川の住まい、或いは俳号なのか。
さて、芥川、自ら描いた河童の絵「水滸晩帰の図」もその部屋には展示されている。
また、俳句が縁なのか、飯田蛇笏との交流の跡も偲ばれる。
芥川は、短編小説家であるが、俳句短歌等詩歌もよくしている。
展示室には、『羅生門』『鼻』などの草稿や漱石からの激励の書簡等もある。
芥川は、近代日本文学の父ともいえる漱石の推奨も大きく、文壇に登場する。
話は逸れるが、先年、臼杵を旅していた折、野上八重子の生家があったが、
彼女も作家としてのスタートは、漱石の推薦が大きい。
この地臼杵であるが、吉丸一昌の出身地である。
博多より 臼杵の旅
臼杵にて 吉丸一昌記念する
早春賦の舘 展示物見る
我が母校 往時は府立三中に
卒業赴任吉丸教諭
漢文と国語と剣道担当し
明け暮れ校歌 作りたるなり
展示館には白黒の剣道の竹刀姿の吉丸先生が飾られてあった。
日本橋久松町にて
久松町 立原道造学びしが
十四行詩ソネット詩人
芥川 辰雄 道造 各々は
築地 向島 日本橋に生まる
私は そが環境と共にある
下町文学系譜と捉えむ
各々は 府立三中学びしが
年代異にし 繋がりありし
孫連れて 久松公園行く度に
道造ソネット歌詞を眺むる
道造は、24歳で夭折したが、日本橋久松小学校に通っていた。
辰雄とは、『風立ちぬ』等の作品のある堀辰雄であり、道造の府立三中の10年先輩にあたる。
堀は、向島小梅町、立原は、日本橋区橘町に生まれて育っている。
小学校については、芥川は本所江東、堀は向島牛島、立原は日本橋久松小学校で学んでいる。
3人とも年代を別にするが、共に府立三中に通学している。
日本橋久松町にて再び
道造は 昭和の二年日本橋
久松小を卒業すなり
夭折す 今でも挙げらる我が国
の叙情詩人の一人なりけり
道造の 十四行詩のソネットは
優しき言葉 詩的に響けり
道造は 詩人であるに建築家
才能併せ 持ちたるなりし
芥川 辰雄に道造 下町は
江戸趣味なるが なぜか西洋
漱石の 紹介推薦重きかな
芥川 野上等世に出るかな
久松小学校の正門の前 左手の植え込みの中に、一片のソネットとともに、彼の紹介がある。
尚、此のところの道すがらは、娘夫婦が日本橋久松町に住んでいたが縁でもある。
以上、此処暫くの暇の折の道のつれづれに思い立つたる処、その折々の拙歌を添えて、
簡単に学窓への想いにかえたい。
掲載は、拙歌集、次のものからである。
『山法師の花』−歌は心の白露かな 2018年7月
『大島桜の花』−刻を止む対象に心捉わる 2019年6月(私家版) 文元社刊
佐藤 良之(63回) 記
(淡交会報第86号より 転載)