我が 淡交五五会の俊英、大森義夫君(55回)が、2016年9月11日、
日本文化大学学長の現職のまま亡くなった。 「喜寿」を目前にした76歳の、余に早い
逝去であった。 大森君は体内の複数の臓器に次々発生するガンを その都度手術して
克服して学長職に復職し、五五会の会合やゴルフにも参加していたが、2016年の夏に
腎盂ガンを併発し、入院加療するも、薬石効なく、幽冥境をことにすることになった。
我が国にとって 誠に有為の人材を失ったことが、実に惜しまれてならない。
大森君は、1939年生まれ、東京学芸大学付属竹早中学から都立両国高校に進学
(55回)、高校時代から、生徒会長を務めリーダーシップを発揮し、また熱烈な恋愛
小説を三高新聞に発表して 周囲を驚かせるなど、十代の頃から既に非凡な文才の片鱗を
見せていた。 1963年東大法学部を卒業して警察庁に入庁、鳥取県警本部長、警視庁
公安部長、警察大学校長、内閣情報調査室長を歴任した。
「雑誌「選択」に「『インテリジェンス」を一匙 ― 情報と情報組織への招待』」
と題して2年近くエッセイを連載し、それを一冊の本に纏めた「国家と情報―日本の国益
を守るために」を上梓、また、「日本のインテリジェンス機関」など、不朽の名著をもの
し、粘り強く日本の国益を守るための情報活動(インテリジェンス)の重要さを訴え続け
た。 また、日経新聞夕刊コラム「明日への話題」や産経新聞の「新聞に喝!」など、
様々な メディアで、類まれな情報発信力を発揮した。
2004年12月に すい臓がんで他界した 同じ五五会の秀才 白川俊一君とは
親交を結び、 二人とも 最初のガンを生き延びて、「あのまま死んでいたら、わけの
分からない人生だったよなあ。 今度は少しましな死に方をしたいものだ」と 二人で
しみじみ 述懐する有様が、前述の「日本のインテリジェンス機関」の序に語られている
が、大森君は、先に逝った白川君との約束を守って「少しましな死に方」をするために
本を書いた とも述べている。
大森君の足跡を振り返ると、"君は我々普通人の何倍もの濃密な人生を立派に生き
抜き、我々に多くの示唆と感銘とを与えてくれた。" 心から感謝をし、そしてこれから
の 日本の行く末を 空の上から 見届けていただきたいと 希うものである。
合掌
追悼文 : 中村 晴永 (55回)
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