作成日:2018/08/29 by AM   

 大学卒業の23才から80才になる現在までの57年間のうちフランス8年(2回)、ラオス4年、モロッコ32年、合計44年間海外で生活、 勤務した事に今更ながら驚いている。
 商社勤務(三井物産)としても異常に長くなったが、晩年の両親のそばで十分付き合えなかったこと以外特に後悔はなく、恵まれた人生と考えている。
色々な国の人と親しく交流でき、日本との違いも種々体験できた為である。当然、思い出は数限りない。
 最初は、26才の時フランスの研修生としてドイツ国境アルザス地方のストラスブール大学に1年間派遣された。
議論好きのフランス人学生と話して判ったことは、かの国では独創的な意見、考えが非常に重要で一般的、ありきたりの意見は馬鹿にされる事であった。
この辺が日本人とフランス人の違いか?ストラスブール時代の思い出2件。 一つ目は、1965年当時のドゴール将軍との挨拶。
町の広場で将軍が大演説した折、当時は東洋人もあまりいなかった為か一番前の席に押し出され、見上げるような長身の将軍と握手できた。
この模様がNHKで放映され、妹たちが「あっ、お兄ちゃんだ」と叫んだが2〜3秒で消えてしまった由、あとから聞いた。
二つ目は、後にペルーの大統領になったアルベルト・フジモリと親しくなった事。
彼は、当時フランス政府の給費生としてストラスブール大学に留学して来た。
 大統領とはその後、リマ(1990年の大統領就任式)と公式訪問中の東京で何回も会った。
中でも淡交会同期の秋元和雄君の南青山の邸宅に招待して戴いた事は鮮明に覚えている。 元大統領が、護衛も付けず宿泊先の帝国ホテルから自分で運転して来た。
途中で道に迷い、その辺で見つけたタクシーに先導させてかなり遅れたが秋元邸に無事着いた次第。
1965年当時、ストラスブールに留学していた日本人も何人かいたが彼の到着で全員胸をなで下ろした次第。懐かしい思い出なり。
ストラスブール時代はまさか大統領になるとは想像だにしなかったが、なってみると彼は非常に勇気があるばかりでなく、 細かい事によく気が付く人である。その後、色々な所謂偉い人に会うチャンスが何回も有ったが、本当のリーダーとなる人は 豪傑そうに見えても細かい事に良く気が付き、ユーモアに富んでいるのが共通点の様な気がする。
彼はその後、紆余曲折あり、最近まで監獄に収容されていたが、昨年末恩赦で釈放されたのは大変喜ばしい。
 その後、2年間のパリ支店勤務を終え、1967年日本に帰国。
 1975年の夏に東南アジアのラオスに勤務となった。
旧仏領インドシナのベトナム、ラオス、カンボジアの一つで、首都のヴィエンチャン市の人口が10万人、当時は、同市にエレベーターと 信号機が各1基しか無い田舎町であったが、ラオス人の人の良さ、素朴さには感動させられた。
すべてに抜け目なく、商売上手なべトナム人と異なり、ラオス人は敬虔な仏教徒で信心深く、人に親切で信頼できる国民性である。
世界の桃源郷と云われていたのも頷ける。フランスが同国を統治したやり方は、高級官僚にはフランス人、中級はベトナム人、 下級はラオス人を起用したそうで、フランス人の植民地経営の知恵?着任早々、従来同国を支配していたアメリカ人が追い出され、 ロシア人が入ってきた。
三井物産の取引先(大部分は華僑)は、全てメコン川を渡り隣国タイに逃げたため、客先、商売とも皆無となった。
その結果、着任早々ラオスを引き揚げ東京に帰る話が本社より出たが、小生はしばらく様子見る事主張、商売もでき始めたので、 1979年までの4年間のラオス勤務となった。
戦後復興のための国際機関、各国政府の資金援助を利用して、日本のバス、トラック、農業用トラクター等を同国に輸出した。
面白かったのは素朴なラオス人は、日本製品であれば資金源が例えばスエーデン政府であろうと日本からの援助と誤解し、大変感謝された事である。
その後、スエーデン政府が気づき、購入品はスエーデン製に限定となり、ボルボに変わってしまった。
 1982年2度目のパリ勤務となった。
60年代と80年代では、フランス人の日本に対する見方が全く変わっていたことが印象深い。勿論日本が経済大国になった為である。
フランス人のものの考え方は、基本的に変わらないが生活様式はかなり変化していると思う。
例えば、60年代の食生活は肉が主流であったが、80年代以降は魚が大幅に食されるようになった(特に富裕層の間で)。
ゴルフ人口も80年代に入り急増した。それまでのフランス人はアングロサクソン系の野球、ゴルフは殆ど知らなかったのが実情。
 1986年、そろそろ日本に転勤を考えていたが、モロッコ勤務の話が持ち上がり、結局現在まで住み着いてしまった。人生とは面白い。
当時のモロッコは日本にはほとんど知られておらず、郵便物なども間違ってモナコに行ってしまうことが度々あった。
今でもイスラム教、アラブ、アフリカは日本から最も遠い存在の様だが、住んでみると意外に近く、共通点がある事がわかった。
まず、緯度が北緯30度強で四季がはっきりしている。
即ち、野菜、果物、魚等の食物も同じようなものが多い事である。
品質的に世界で一番日本の物に近い松茸も存在しており、多い時は年間100トンも日本向けに空輸された実績あり、 モロッコでは猿しか食べないキノコが当国の外貨獲得に大いに貢献した時代があった。最近は、韓国、中国等近隣諸国の物との 競争力に負け数量がかなり減った模様である。面白い事に、松茸と云っても北部のリフ山脈の杉林から取れ、正確には杉茸である。
日本で高級魚として知られるはた(くえ)もあり、手ごろな値段で買えるのはありがたい。生牡蠣も一年中手に入る。 野菜、果物も日本に有るものは殆どある。
 当地カサブランカは、海に近いせいか夏の気温も30℃を超えることはまれ、冬でも10℃以下にはならない。我が家には暖房装置は、 セントラル・ヒーティ ングと暖炉があるが、夏の冷房は必要なく、設置されてない。
 気候が似ていると人間も似てくるらしい。一番顕著な点は、建前と本音である。
単刀直入なアメリカ人と黒白つけたがるヨーロッパ人と比べ、モロッコ人は日本人と似て建前と本音が有るような気がする。
また非常に親日的でもある。勿論、日本がバブル全盛の時代であるが「日本は戦争に負けたが経済戦争ではアメリカに勝った」とか、 「日本人は韓国人より優秀で正直」等のコメントをよく聞いた。
 1995年三井物産定年退職後は、従来の経験を活かし、コンサルタントとして日本とモロッコ間の経済、文化交流に従事している。
経済面では、日本政府よりの有償、無償経済協力プロジェクト遂行面で、主として両国のものの考え方の違い、そのギャップを埋める為に 微力を尽くした。コンサルタントの報酬はモロッコ政府より受けた。
また、両国民間企業間の商売関係樹立に種々貢献できたことも幸運であった。
文化面では、日本から来る多くのピアニスト達や雅楽の楽団の為に、彼等の演奏会に協力できたことは楽しい思い出である。
 現在、仕事は殆ど無くなり、日常の生活は毎日の早歩き、ゴルフ、日本のテレビ観賞、現地の古い友達との社交(食事会)等、 知的な事は一切やっていないが、健康的には大きな問題なく、こちらの生活には大変満足している。
但し、歳も歳であり数年以内には日本に引き揚げることも検討中、準備を始めた。

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