あいさつは、小泉一郎君。はじめに故人となられた同期生のご冥福を祈っての黙?のあと、このたびの米寿のお祝いは、
早い方が良いということで、数え年で挙行したことを説明。多くの参加を得てご一緒にお祝いできることを慶びたいとのお話。
つづいて乾杯は、遠く大阪から馳せ参じてくれた寺尾和夫君が、健康を祈っての乾杯をあげました。
そのあとは、五つの円卓を囲んでの美酒美肴、杯を重ねました。
壇上にあがっての懐旧談。それは、高一のときのお上の「校庭削減方針」に対する反対のプラカードを掲げての街頭デモのこと、
高三のときの京都修学旅行のとき、数名が抜け出しての祇園探訪などなど。
当時の師友の結びつきの強さを語るものでした。
思い返しますと、昭和20年3月の東京空襲で、校舎が火炎につつまれ、辛うじて焼け残った体育館で、入学式を4月にあげた新一年生は、
学業どころでなく、焼け跡の整理にかり出されました。
また戦後は、衣食住すべて貧しい生活難のなか、学制も都立三中→三高→両国高校と目まぐるしく変りました。
ただ、男女共学は次年度(49回生)からでした。
焼けあとの復興もすすんで、一年生のとき134名の同期生も高校の卒業のときは、319名にふくらんでいます。
そのような状況のなか 同期生の結束は固く、卒業後も同期会がよく開かれています。特に、小宮君の呼びかけで始められた忘年会
(赤穗浪士討入りの日12月14日を定例とする)は、神田の鳥料理「ぼたん」の大座敷で、40年以上続けてきました。
(4年前からはアンフェリシオンに移す。)
還暦、喜寿、傘寿の節目節目には、都心のホテルでお祝いの会を開いてきました。
また、戦中、戦後のそれぞれの思いを記録に残そうと、小宮、戸石忠、田口雅雄君らの協力で、二度に亘り文集づくりをしました。
「私達の戦争体験」〜耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ℃梠繧生きて〜(34編、平成4年刊)、「古希に生きて」
〜昭和ひとけた・それぞれの軌跡〜(39編、平成14年刊)、がそれで、苦難の戦中、戦後の学校生活を中心に語り継ぐことができました。
宴は、楽しい交歓のなか田村光君の指揮で、「卒業式の歌(「祝へ祝へいざ諸共に・・・」)をあらたに加えて、最後に校歌を斉唱。
本締めは、片岡君でとどこおりなく終了。
それぞれ記念写真を手に散会しました。
このたびは、田口、清水晃(途中まで)、浪川、村上、伊東が小泉君に協力してすすめてまいりました。
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