大沼 廉さん インタビュー
【 淡交会 会報83号 インタビュー記事 】       最終更新日: 2019/12/22   
表紙インタビュー
イチローの安打世界新記録の瞬間を撮影した
共同通信社写真部写真・映像記者      
大沼 廉
さん(102回)
 ―― 大学、大学院で 国際関 
係論を学んだようですが、
報道カメラマンになったの
はなぜですか?      
「国際機関、できれば国連
で働きたいと思って勉強し
ていたが、新聞社の海外特
派員も憧れていた。共同通
信社の会社説明会で、写真
部の先輩に『何かスポーツ
やってるの?』と聞かれ、
『野球やってます』と答え
 たら、『イチロー撮れるよ』
と言われ、『イチローが撮
れるならカメラマンもいい
かな』と思って、写真記者
 の試験を受けることにした」
写真記者採用は1人
―― 入社試験は難しかった
と思いますか。
「実技試験のテーマは『大
震災の影響残る東京』だっ
た。2011年4月、東日
本大震災の直後で、制限時
間は2時間半。歩き回って
も良い写真が撮れず、会社
に戻ろうと山手線に乗った
ら、突然車内の電気が消え
た。目の前の観光客が『ワー
ツ』と騷ぐ中、停電に慣れ
切った乗客が静かに本を読
んでいる姿を撮った。その
写真で採用が決まったのか
もしれません」
―― 運命を決めた ショット
ですね。          
「その年採用された写真記
者は僕1人だったので、か
なりラッキーでした」   
―― イチロー選手(当時マ 
イアミーマーリンズ所属)
の日米通算4257安打の
妓多安打数世界記録更新の
写真を撮ったのは3年前で
すね。          
「忘れもしない2016年
6月 日、米サンディエゴ
でのパドレス戦。2か月弱
の大リーグ出張で、この日
は日差しが強く陽炎(かげ
ろう)がきつくてピントを
合わせづらかった。第1打
席で世界タイ記録の安打を
放っ時はピントが怪しく、
その後、第4打席まで凡退
15
して 『やばいなー』と思っ
ていた。すると、第5打席
でサーツと風が吹いて陽炎
が消えた。1塁側から狙っ
ていたが、新記録の時は思
いっきり右翼線に引っ張っ
た打球で、僕の方に向かっ
て走り出すイチロー選手の
姿を鮮明にとらえることが
出来た」         
―― 毎日新聞に載ったそうで
すね。           
「毎日はじめ 多くの新聞に
  掲載されたと聞いています」
―― 同年5月の オバマ米大
 統領の 広島訪問も撮影した
とか。         
「内緒の隠れスポットから、
大統領と安倍首相が献花し
その奥に平和の灯が燃えて
いるショットを撮ったが、
大統領が破爆者を抱きしめ
る別の人の写写に持ってい
かれました」      
―― 歴史を記録する写真記
者の魅力や生きがいをお聞
かせください。      
―― 歴史を記録するのは簡
単ではない。撮り方によっ
ては、写真を見る人をミス
リードする恐れがある。僕
が撮った写真がきっかけで
その後の生き方が変わっ  
たとか、人が何かを決意す
るきっかけになるような写
真が撮れたら嬉しいです」
―― これからの目標は?
「入社した時はプロ野球撮り
たい、次は大リーグでニュー
ヨークーヤンキースを撮り
たい、そしてイチローを搬
りたい、出来れば新記録に
立ち会いたい、と次々に目
標を立て達成してきた。今
の目標は今月から日本で始
まるラグビーW杯でいい写
真を撮ること。来年の東京
五輪では、世界の報道機関
で使われるような ベスト
ショットを狙います」  
―― 忙しくなりそうですね。
「ラグビーは岩手・釜石、
 静岡・袋井、大阪・花園、
 大分、横浜と各地を移動。
 東京五輪では卓球を担当す 
 ることが決まっています」










―― 大田区に住んでいて両
国高に人学したのはなぜで
すか?          
「もともと地震とか火山の
研究がしたかった。父の実
家が伊豆大島で、僕が生ま
れた年(1986年)に三
原山が大噴火し全島民避難
があった。火山の噴火予知
で島の人たちの助けになろ
うと火山学者を考えた。火
山学でトップの東京大学に
入るにはどこがいいか。日
比谷高校は難しかったので、
次に東大に近いのはどこか
と探して両国高を見つけた
のです」         
 ―― 大田区から通ったので
すか?          
「はい。西馬込から都営地
下鉄に乘って 浅草橋でJR
に乗り換え 錦糸町まで 分
でした」        
 ―― 部活は硬式野球部?  
「両国高は入学の前年(2
001年)に都大会で修徳
高を倒しベスト になるほ
ど強かった。勉強も野球も
出来る強いチームに憧れた。
伝統あるチームの一員とし
て甲子園出場を、と本気で
思いました」      
―― ポジションは?   
「キャッチャーです。兄が
大リーグーパドレス戦の9回、右翼線二塁打を放つマー
リンズのイチロー。 メジャー記録を 日米通算で抜く
4257安打とした
(2016年6月 日、サンディエ
ゴで大沼廉さんが撮影し、毎日新聞はじめ多くの新聞に
掲載された)=共同通信社提供            
キャッチャーをしていて面
白そうだったから。でも、
同学年にうまい子がいて、
僕はずっと控えで代打専門
でした」         
―― 戦績はどうでしたか?
「入部した頃はベスト に
進出した年度の先輩方が指
導に来てくれた。でも、部
員たちは先輩方に礼も言わ
ず、練習は適当にこなし、
退部者が増えてチームは弱
くなる一方。僕がベンチ人
りした1年秋から3年夏ま
で公式戦全敗、すべてコー
ルド負けでした」     










―― 野球部はどん底?   
「大学でも野球を続け、1
年の夏休みから両国野球部
の合宿の手伝いをした。学
生コーチとして積極的に参
加し、自分たちの代でめちゃ
めちゃにしてしまった野球
部を再び強くしたいと思い
ました」         
―― 後輩たちの態度はどう
でしたか?        
「強くしたいとの思いは独
りよがりで、後輩には『余
計なお世話だ』と、最初は
疎まれました。でも、次第
にチームの雰囲気が変わり
始め、一つ一つの練習の意
味を考え、短い時間・狭い
場所で効率的に練習し、技
術を向卜させる後輩たちが
増えたのが印象に残ってい
ます」          
―― 助監督もされたとか。
「大学院に進学した年、石
川敏雄監督(当時)に助監
督就任を申し出た。練習に
は朝練も含めすべて参加し、
毎日200球以上打撃投手
として投げ続けた。そして、
上達せず落ち込む部員がい
たら、とことん練習に付き
合いました」       
―― 野球部は変わった?  
「学校を挙げてサポートし
てもらえる強い野球部に変
わった。就職とともに助監
督を退任したが、東東京大
会で勝ち進む部員たちを見
ることが出来、幸せです」










―― 両国高での思い出は?
「練習中、ロードワークで
通った隅田川の堤防、両国
橋から新大橋を越えて見え
てくる清洲橋の美しい姿は、
つらい練習の楽しみの1つ
だった。朝練がある時は6
時集合で地ド鉄の始発に聞
に介わないため、1時間す
かけ自転車で通学したが、
途中の築地場外市場でラー
メンを食べるのも密かな楽
しみでした」       
―― 両国高で学んでよかっ
たことは?        
たことは?        
「勉強する時のものの考え
方、思考力をしっかり鍛え
てもらった。何より校風が
好きだった。校則がない」
―― 後輩に一言     
「大学受験を目標に頑張る
のはわかるが、学ぶ科目を
絞らず、興味あるものをド
ンドン勉強した方がいいと
思います」        
(9月5日 亀戸のアンフェ
リシオンで) (宇田川) 
  ◇  ◇  ◇    








1986年 月、大田区生
まれ、 歳。       
共同通信社ビジュアル報道
局写真部写真・映像記者。
・大田区立池雪小、大森第
十中を経て2002年、両
国高校に入学し、05年に
卒業した。       
・ 年3月、静岡県立大学
国際関係学部国際関係学科
卒業。在学中の 年9月〜
 年6月、フランスのリー
ル政治学院へ交換留学。  
・ 年3月、上智大学大学
院国際関係論専攻博士前期
課程修了(国際関係論で修
士号)。         
・同年4月、共同通信社入
社。東京本社、大阪支社、
  東京本社、京都支局を経て、
  今年5月から東京本社写真部。

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