作成日:2021/12/03 by AM   
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 母校は今年、創立120周年を迎えました。
これを校舎や校地の切り口から見るとどうなるでしょうか。
開校以来校舎は多難が続きます。また、戦後には校地削減の計画まで浮上しました。
このような難局の折に登場するのが、『ワンチーム三中・両国高校』、つまり教職員、在校生、父兄、 淡交会(卒業生)による連携プレーです。

 校舎の多難な歩み
校舎の場所は、120年間変わりませんが、江戸時代に遡ると武家屋敷街でした。
明治に入ると、日本初のマッチ工場が操業し、その跡地に明治35年(1902年)、初代の欧風木造校舎が建てられたのです。
 初代校舎は、残念ながら大正12年(1923年)の関東大震災により全焼してしまいました。
 昭和2年(1927年)には、二代目に当たる鉄筋校舎が落成となります。
この二代目校舎も、昭和20年(1945年)の東京大空襲のため全焼しましたが、戦後、復興工事を行い、 長く私達の学び舎として活躍しました。
 昭和58年(1983年)に落成した現在の校舎が、三代目です。

 災害等に抗するワンチーム
 大災害や戦時中には、ワンチーム三中の力が発揮されます。
ここでは、@明治43年(1910年)の大洪水、A関東大震災(1923年)、B東京大空襲(1945年)の例を見ます。
 大洪水の際は、住民が本校に避難して来ました。
教職員や生徒、卒業生が、救護所の事務局です。教室開放、炊き出しはもちろん、慰労会開催まで力を発揮し喜ばれました。
なお、卒業生代表は芥川龍之介であり、彼自身「水の三日」という作品を残しています。
 関東大震災時には、廣瀬校長宅で職員会を開き、三中の総力を挙げ、生徒の安否確認に取り組みます。
在校生は、四中(戸山高校)、五中(小石川高校)での間借り授業に耐え、教員は、ガリ版刷り教材で授業を続行したのです。
 また、戦時中は、空襲に備えて、都立三中防護団が組織されました。
空襲当日も教職員9名、生徒10名の体制です。
防護団は避難者を誘導する一方、消火活動に当るなどチームプレーそのものでした。
 なお、本校ワンチームの活躍は、災害等の非常時に限りません。
平常時も寄付・周年事業の形で活動しています。
寄付金は、戦前では図書館、プール、戦後は、全焼校舎の復興工事等に当てられています。

 校地削減反対・都庁へデモ
 昭和22年4月、都建設局から本校に対して、校地760坪を削減するとの連絡が入りました。
使用目的は、錦糸町駅前マーケットの立ち退き・移転です。
 ワンチームは直ちに動きます。
翌5月、先ず教職員が都へ陳情書を提出。同月に緊急卒業生大会や保護者会が開かれ反対決議。在校生も行動します。
1年〜5年生出席の生徒大会が開かれ、デモ行進を行うことで決着です。
 昭和23年5月、小倉校長を先頭に、教職員と在校生が一丸となり、都庁までデモ行進を行いました。
この行動も足掛かりとなり、校地削減は撤回されたのです。

淡交会資料室委員長 原口 孝(62回)