【 淡交会 会報87号 より 転載 】                  最終更新日: 2021/12/29  
 母校は今年、創立百二十周
年を迎えました。これを校舎
や校地の切り口から見るとど
うなるでしょうか。
 開校以来校舎は多難が続き
ます。また、戦後には校地削
減の計画まで浮上しました。
このような難局の折に登場す
るのが”ワンチーム三中・両
国高”、つまり教職員、在
校生、父兄、淡交会(卒業生)
による連携プレーです。
 校舎の場所は百二十年間変
わりませんが、江戸時代に遡
ると武家屋敷街でした。明治
に入ると、日本初のマッチ工
場が操業し、その跡地に明治
35年、初代の欧風木造校舎が
建てられたのです。
 初代校舎は、残念ながら大
12年の関東大震災により全
焼してしまいました。
 昭和2年には二代目に当た
る鉄筋校舎が落成となります。
この二代目校舎も昭和20年の
東京大空襲のため全焼しまし
たが、戦後、復興工事を行い、
長く私達の学び舎として活躍
しました。
 昭和58年に落成した現在の
校舎が三代目です
 大災害や戦時中には、ワン
チーム三中の力が発揮されま
す。ここでは、@明治43年の
大洪水、A関東大震災、B東
京大空襲の例を見ます。
 大洪水の際は住民が本校に
避難して来ました。教職員や
生徒、卒業生が救護所の事務
局です。教室開放、炊き出し
はもちろん、慰労会開催まで
力を発揮し喜ぱれました。
 なお、卒業生代表は芥川龍
之介であり彼自身「水の三日」
という作品を残しています。
 関東大震災時には廣瀬校長
宅で職員会を開き、三中の総
力を挙げ生徒の安否確認に取
り組みます。在校生は四中
(戸山高校)、五中(小石川
高校)での間借り授業に耐え、
教員はガリ版刷り教材で授業
を続行したのです。
 また、戦時中は空襲に備え
て都立三中防護団が組織され
ました。空襲当日も教職員9
名、生徒10名の体制です。防
護団は避難者を誘導する一方、
消火活動に当るなどチームプ
レーそのものでした。
 なお、本校ワンチームの活
躍は災害等の非常時に限りま
せん。平常時も寄付・周年事
業の形で活動しています。寄
付金は戦前では図書館、プー
ル、戦後は全焼校舎の復興工
事等に当てられています。


 昭和22年4月、都建設局か
ら本校に対して校地760坪
を削減するとの連絡が入りま
した。
使用目的は錦糸町駅前マーケッ
トの立ち退き・移転です。
 ワンチームは直ちに勤きま
す。翌5月、先ず教職員が都
へ陳情書を提出。同月に緊急
卒業生大会や保護者会が開か
れ反対決議。在校生も行動し
ます。1年〜5年生出席の生
徒人会が開かれ、デモ行進を
行うことで決着です。
 昭和23年5月、小倉校長を
先頭に、教職員と在校生が一
丸となり都庁までデモ行進を
行いました。この行動も足掛
かりとなり、校地削減は撤回
されたのです。
 展示はテーマの具体化に注
力すると 共に、古地図や国
土地理院地図等を活用してビ
ジュアル化に努めました。
 なお、今年度の両国祭にお
いてはコロナ禍のため、残念
ながら学内での淡交会関係の
展示は出来ませんでした。
 これに対して淡交会事務局
のご支援ご協力により、空き
スペースでの模擬展示やwe
b上【淡交PLAZA】での
内容紹介が可能となりました。
深く感謝致します。
 資料室委員会
    原口  孝 (62回)