「江戸時代、浅草の浅草寺にはコウノトリが繁殖し、本所・向島の湿地にはトキやツル、
シギの仲間などが、数多く生息するなど、江戸の町とその周辺は野鳥天国さながらでした」と、
元両国高校生物教師・都市鳥研究会代表の唐沢孝一先生は語っていますが、
最近各地でそんな復活運動が始まっています。
また、昭和35年まで、東京湾は広大なアサクサノリ漁場が広かっていましたが、
高度経済成長期に、大部分の海域がゴミや海底の土砂で埋立られ、海や川の水質は悪化しました。
しかし、改善が進み、筆者の家に近い小名木川にハゼやボラが増え、カワウ、サギをはじめカワセミまで
飛ぶようになりました。
そこで、すこし過去を振り返ってみたいと思います。
江東区東部地域(城東区)の緑被率の変遷を見てみると、明治初期には約95%もあった耕作地・緑地が、
日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、第2次世界大戦を経過する中で、急激に減衰し、
約1%までになりました。
これは、江東区が日本最大の重化学工業地に発展したためです。
日本資本主義の父とも言われる渋沢栄一が深川に住んでいたことや、文明開化・軍事大国化の
先進役であったこと等も大きい要因なのかも知れません。
戦後も、高度経済成長をリードした江東区東部地域の緑被率は、30年間変化かありませんでしたが、
1970年頃に環境時代が始まり、工場が地方に疎開し、跡地は大型住宅団地へと転換し始めました。
また、大型公園や親水公園、公園・学校ビオトープ、都市緑化が進展し、緑被率も徐々に回復し続けています。
一度失った自然を元に戻すことは大変ですが、川がきれいになり、魚が戻りだしていることを考えると
できないことではありません。
筆者は、自宅の屋上でプランターによる屋上菜園を行い、無農薬の野菜を年間30〜50kg収穫しています。
土は自宅から出る生ゴミを生ゴミ処理機で処理して用い、自宅から生ゴミは出さないライフスタイルに。
また、降った雨を活用する雨水利用を行っています。
屋上に鳥や昆虫がやってきて、美味しそうに葉っぱや実を食べています。身近な生物多様性に嬉しくなります。
また、江東エコリーダーの会の仲間と江東区内の小学校や保育園や高齢者施設に「緑のカーテン」の施設を設置し、
地球温暖化対策の啓蒙に役立て、子供たちの「苦かったけれど美味しかった」との言葉に涙腺が緩んだりしています。
さらに、江東区の「緑のカーテンモニター100」を会で受託し、マンション等に住む方々の窓辺に
「緑のカーテン」を育てることを応援・支援しています。
さて、今年10月に名古屋でCOP10が開催されます。
日本政府は、里山を大きなテーマに位置づけています。
一度手が入った自然は、その後、地域の人の手で守っていかないと質の良い緑を守れません。
自然を拓いて開発してきた市街地も可能な限り自然に調和した、鳥や昆虫の棲める緑に戻したいものです。
緑とオープンスペースからなる緑地は、人間生活に欠かせない環境資源であるとともに、
観光資源でもあり、生物多様性・人間性回復の大きな手がかりでもあります。
20世紀の日本では、市場原理と土地神話に脅かされて、緑地は、無残にも減少と荒廃を繰り返してきた感がありますが、
小さくとも屋上やベランダや軒下で身近な緑を育てることで、一人ひとりが、地域の生物多様性修復に貢献しましょう。
|