(スマホ) 対応 作成日:2015/10/31 by AM
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10月19日に、詩人・小説家の小池昌代さん (75回) をお招きし、高校・中学の全生徒を対象とした 講演会が開催された。 小池さんは、数々の文学賞を受賞していて、大学入試問題にも作品が引用されることの多い方である。 講演内容は、主として詩に関するもので、話の中に 生徒たちの作品に対する感想を織り交ぜて進められた。 講演全体を通して、若い人達の強い感受性から生じるであろう、孤独感、迷い、苦悩に対して、励ましや声援を送りたいという、 詩人のやさしさが感じられた。 |
以下に講演内容の一端を紹介する。 両国高校時代は、オーケストラ部でビオラを演奏していた。 人の声は少年期には高いが、成人するにつれて低くなる。 精神の状態と音の高低は密接に関係しているように思う。 バイオリンに比べて低音域であるビオラの音程は、 自分の精神状態にあっていたように感じる。
小さいころから、言葉に限らない より広い意味での詩的なもの、要素としての詩にひかれていたが、詩を書けるようになったのは26、7歳のころからであった。
文学をやっていて楽しいことも多かったが、自分が自分であることへの、どうしてよいかわからない思いや、傷つけたり、
傷つけられたり といったことの連続で、嫌なこともたくさんあった。 しかし、精一杯生きてきた という印象もある。
生徒の皆さんの詩を読ませていただいたが、この年代で、詩として ものすることが できていることは、すごいなと思う。
詩を書くことは 最初は恥ずかしいが、一度実名で書いてしまえば 平気になるもので、思い切って本名で発表することもよいことである。
高校時代は、男子生徒の方が多かったが、対等に張り合って、互いに言いたいことの言い合える仲の友情を育むことができた。
皆さんにも、異性の友達と このような友情をはぐくんでほしいと願う。詩を書くときは、没頭している たった一人のモード。 詩は波動を持っているのではないか と考えることがある。 大自然のリズムといったようなものから、 何かをもらい受けているとも感じる。 時には、見えていないものへ 思いを馳せることも大切。 空白、沈黙、ブランク、改行などの 言葉の切れ目を意識することで、詩が立ってきて、立体的になる。 そういった意味からも、詩は声に出して読むのがよい。 最後に 「コルカタの 薬屋を営む大家族の家で 詩を書く一人の少年に会った…」 で始まる 『木陰』 という ご自身の詩を朗読された。
少年は、異国の女流詩人の問いかけにかろうじて答えるが、恥ずかしさに自室へ逃げ込んでしまう。
羞恥心からの 彼の困惑こそが 詩の原動力であるに違いない。しかし・・、「わたしはおもう 彼こそは 世界じゅうの人々に 詩を書かせている 硬い心臓に違いないと」 と結んでいる。 淡 交 会 事 務 局
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